書く必要はないものなんですけど、最近ずっと思っていることを。
今日は仕事の時間を間違えました。
1時間間違えていたことをテキストで知って大慌てで急行し、30分の遅刻。
1時間のセッションが30分に短縮。
仕事をいただく側として最悪ですよね。
場所は地元のプライベートサロン。
知人が自宅にオープンしたプライベートサロンに誘っていただき、今日はその最初のアポイントメントでした。
ごめんなさい!間違えっちゃったから急いで行きます! とテキストすると、
リラックスして安全運転でいらっしゃい。
終わった後に再度謝罪の連絡をすると、
フィードバックがとても良かったから、別の日にもブックさせてね。
お金に余裕のある人は心に余裕があるんだなと思ったけれど、身の上話をした記憶では、彼女も紆余曲折あって今に至る人。
いろいろあって、今の彼女に「なった」んだなと思いました。
ありがとうございます、と心から感謝が湧きました。
そしてやっぱり、
市井の中に目標としたくなるような人がいる、と思いました。
私のインド人のヨガの先生はこう言います。
1日に2人の人を幸せにしなさい。
例えば、おはようと言って相手が笑顔になったら、それが “1ハッピー“ 。
本当に辛い時は、笑えと言われてもできないんですよね。
リラックスと言われても、できないんですよね。
その言葉さえ右から左で、何も心に引っかからないんですよね。
心に届かない。
いい例えではないけれど、
溺れる人は、助けてという声すら出せないまま沈んでいく。
救命ボートに乗れる人、そこまで泳げる人ばかりではない。
「できない」を経験したことはありますか?
私が2020年のコロナで経験したのは、「できないを知る」です。
仕事ができない。
お金を作ることができない。
贅沢ができない。
そういうことだけではない。
転職を考えざるを得ず資格取得のために通い始めた学校。LAシティーの奨学金の申請のための試験を一度落ちました。
いざスクールに通い始めても、医療英語に苦戦するだけでなく、Zoom内で質問や発言、テキストの音読や発表。
地獄ですよね。
質問しなければどうしようもないことを勇気を出して質問したら、“What are you talking about?”
何言ってるか全然わかんないんだけど?
先生なのに、サイテーですよね。
当然毎回のテストも悪くて、クラスメイトの前で名指しで最終通告されたりして。
こんなに頑張ってるのに…と思ったら、勉強する気も失せていく。
勉強が苦手になる心の仕組みをよく理解しました。
やろうと努力しても結果がついてこないし、その上、その努力を踏みにじられる。
ちょっと言葉が悪いんですけど、
勉強なんてクソだな、と思い始める仕組みです。
ロックダウン前半は体調不良の日が多く、前屈すらできない。座っていることも、横になることもできない。歩くことも。
もう二度とヨガなんてできないんじゃないかと思う日がずいぶん長く続きました。
ヨガをできない体がある。
やるやらない、好き嫌いじゃなくて、
都合上、できない。
私達は「できる側」で物事を考え、そして発言していることが多いんだなと感じました。
できない時って、できる側のことを、遠くでやってるお祭りみたいな感覚で見てるんですよね。
数字がどうだとか、目標達成だとか、
誰かの批判だとか、称賛だとか、
そういうにぎわいを、お祭りのように見ている。
若い頃は割と無難になんでもこなせてきたので、ある意味、できないという心理を本当の意味で理解はできていなかったと今反省します。
人の心に寄り添うというのは、軽い気持ちや生半可な心ではとても失礼です。
セッションを受ける、治療をうける、カウンセリングを受ける、行動に移す、言葉にする、
それらが、金銭的に、能力的に、環境的に、できない人がいる。
言葉は重いものです。
楽しいうれしいという言葉や、励ましの言葉ですら、心を傷つけることがあるって知っていますか?
傷つくんですよね、と言えないまま沈んでいく心がある。
そんなこと言ったらなにも言えないじゃない!
というのは、またちょっと違っていて。
「できない」の心は、とても繊細だということです。
「できる」の心では見つけにくい心にヒダがあるということです。
人を本当に幸せにするって、一体どういうことなんでしょうね。
ヨガの先生はこう言います。
あなたが本当の意味で幸せにした人は、いつかあなたのために祈ってくれるでしょう。
人知れず自分のためにそっと祈ってくれる人がいる。
これ以上に幸せを感じることはないように思います。
言葉を持たない自然や動物たちは、私達をじゅうぶん幸せにしてくれます。
静かであることの美しさと強さ。
今日は、海を見ながらそんなことを思いました。
