輪廻転生というものがあるとして、
前世からのカルマを解消せねばならないというのならば、
あらためてそれに取り組む環境を選んできているのだろうし、
カルマに取り組むことは、
円環ではなく、螺旋での上昇。
やった分だけあがる。
やらなければ、あがれない。
以前、お寺のご住職とお話した時の学びから。
胸の前で手を合わせる作法もいく通りかあるそうで、
そのうちの一つは、両の掌の間に少し空間を作って、蓮のつぼみのようにふっくらとさせる形。
一般的には、花が咲き受粉し種子となるのだけれど、
蓮の花は、開いたときにはもう種子が一緒に存在するらしい。
そこからつまり、
問題というものが起こるのと同時に、答えもすでに出ている。
という教えがあるそうです。
それではなぜ、人は問題の解決策が見つからないと悩むのか。
その答えが、
自分が一番見たくないものだから。
自分に一番都合が悪く、
知っているけれど向き合いたくないもので、
向き合うと痛みや困難が伴うと知っているから。
だから、
答えがない、と騒ぐ。
答えがない方が、都合がいい。
見たくない、認めたくないからね。
自分でしか見つけられないんですよ、答えって。
食べ物の好き嫌いが、自分の舌や好みの感覚でしか決められないのと同じです。
なにが自分にとって都合の悪いことなのか。
それは自分で自分にとことん聞いていくしかないことなのです。
たくさんの占術があり、
たくさんの信仰があり、
たくさんのセラピストやカウンセラー、メンターと呼ばれる人達がいます。
そういうものは、
きっかけやヒントとなるけれど、
それを持ち帰った後は、
自分との対話、でしかひらいていかないのです。
私は自分が”ねくら”だという自覚があります。
ここぞという時は、自分の中にこもります。
ぐるぐるしながら、
一筋の光のようなヒントを頼りに、
また外の世界に戻っていく、という
自分なりのサバイブ道がなんとなく作られてきたように思います。
ヒントなんて、
日常の中にいくらでもあるんです。
日常の中にそれを見つけようとする心、それが足りないだけ。
私は、そう信じています。
昨年の夏、日本への一時帰国ではたくさんのハスを目にしました。
地元の蓮池。
旅先の大分。
不思議な雰囲気を漂わせる華ですよね。


