またもや1周間前の回、天下分け目の回の分です。
リアルタイムの方では関ケ原の戦いやってしまいました。
前回同様に情報量が多い。
今回の大河はカットする逸話はばっさりカットする代わりに、諸説あるシーンを描写する時は細かく諸説やそれに関する逸話を入れてくるのでそれを探しながら見るのも面白いですね。
今回は真田の動向と上田城の攻防戦、小山評定、伏見城の戦いと岐阜城攻略、家康出陣と関ケ原直前の流れを盛り込み、ずっと緊迫感溢れる描写でかっこ良かったと思います。
真田は本多忠勝の娘を妻とした長男信幸は東軍に、当主昌幸、次男信繁(幸村)は西軍につきました。
これは両方に分かれることでどちらが勝っても家が潰されないようにするための真田の策略とされていますが、これは別に真田に限ったことではなく多くの大名が採っている策だし、この関ケ原の戦いに限ったことではなくこれまでの多くの戦乱の中でも採られた策であるし、そもそも戦が無くても対立する派閥両方に誼を通じておくのは古今東西よくある話なので、この策一つをとって真田が優れた策略をしたという訳ではありません。
どちらかというと当主の昌幸が負ける方についてしまったということで判断を誤ったか、勝つ方につくメリットよりも家康嫌いの感情を優先してしまったかだと思うのですが。
そのお陰で本多忠勝の娘稲姫(小松殿)が信幸の城を接収しようとした昌幸を城に入れず追い返すという武勇伝が生まれ、ゲームの登場キャラになって戦国無双することになるとは思ってなかったでしょう。
そのまま真田について話を進めると、家康は秀忠に榊原康政、本多正信をつけて別働隊として甲斐、信濃を抜けて美濃赤坂を目指すルートを進ませました。
それで真田の策にはまって関ケ原本戦に間に合わないっていう結果のインパクトが強すぎてあまり議論されていませんが、なぜ別働隊を出したのでしょうか。
初めから一緒に東海道を進めば上手く合流できないなんて事態にはならないし、山の中を進むルートで不測の事態で行軍が遅れるのも予想できるし、真田に限らず途中で敵対する大名が足止めをしてくれば大軍が進める山の道なんて限られてるんだから容易に足止めされてしまうでしょう。
となると、初めから上手く合流できたらラッキー程度で、本来の任務は甲信を進ませることでの甲信の反対勢力を抑えるのがそもそもの目的だったんじゃないかと思います。
東軍とはいうけども東軍の更に東から敵が来たら挟まれちゃうからね。
確定史実じゃないけど真田に固執して上田城を落とそうとしていたのは秀忠で榊原康政と本多正信はそれを止めようとしていたと言われていますが、関ケ原の後も秀忠は後継者ポジションのままで榊原康政も本多正信もお咎め無しなので本戦に間に合わなかったことはそれほど重要でもなかったんじゃないかと思います。
秀忠の軍には榊原康政、本多正信だけではなく、大久保一門(兄弟も子供もいっぱい参戦)、ん?大久保忠世生きてた?いつ死んだ?wikiによると関ケ原の6年前に死んでいるので、主要キャラなのにいつの間にかいない、みたいなことになってるのね。
ともかく、大久保一門、と、わんさん推しの奥平さんなど徳川の主力武将が多く加わっていました。
で、説的には秀忠が真田に固執した説が多いけど三河物語では本多正信をけちょんけちょんにけなしているので、というか他にも本多正信がみんなに嫌われていた史料がいっぱいあるのであんなふうに軍議で発言できていたかはわかりません。
歴戦の武将たちが揃って真田にはめられるってのも変な話だよね。
また、別働隊を出さずに一緒に東海道を進んでしまうと一気に決戦になってしまい、家康の準備が整わないまま不確定要素が多すぎる状態での開戦になってしまうのでそれを避けたかったのもあるかもしれません。
家康は諸将は先に進ませたものの自身はしばらく江戸城に留まって味方を増やすべく書状を書きまくっていて、三成も同様でしたがドラマで西軍は時間が経てば不利になるというセリフもあったように、冷静になればどちらの勝率が高いかで家康の味方が増えそうという理由もありそうです。
となると、敵中に孤立した伏見城は完全に捨て駒なのですが、ドラマでは捨て駒ではなくて守り切るように鳥居元忠に伝えていたのでストーリーが矛盾する気がします。
守りきれるわけがないのだから守らなければならない城ならば一刻も早く軍を進めるべきだし、守らなくて良いのならば城を放棄して撤退するなり降伏するよう指示を出しておけば良かったのです。
だから、鳥居元忠に与えられたミッションは、戦い抜いて壮絶に討ち死にすることでした。
じゃあなんで伏見城で討ち死にするのが大事、言い換えれば伏見城を放棄せずに守る姿勢を見せることが大事だったかというとこれまたあまり議論されていませんが、伏見城を放棄すると上方で他に徳川方につく勢力がいた場合に見殺しにしたことになってしまうからだと思われます。
伏見城ががんばって壮絶な戦いをしているから、同じ様に上方で孤立することになっても徳川方につく勢力が立ち上がれるということですね。
そうしないと気持ちは徳川方につきたくてもやむを得ず石田方につくことになってしまうし、実際そういう武将も多くいたけど、大津城に立てこもった京極高次や、田辺城の細川藤孝など、結局落城、開城したけど西軍の動きを鈍らせる役割をしたことに繋がるんだと思います。
また、伏見城への攻撃は徳川の敵になる武将を特定する、という意味もあったかもしれません。
鳥居元忠、長く家康に仕えて数多くの戦功もありますが、同じ様に桶狭間から家康に従って戦い続けた武将と比べて飛び抜けているわけではありません。
ずば抜けているのは四天王の酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、真っ先に城を任された本多広孝、岡崎を任された石川数正で、鳥居元忠も数えられている徳川16神将にも家康の戦を支えた猛将たちがラインナップされています。
そんな中で、鳥居元忠の名を不朽にしたのが伏見城の戦いですね。
千代さんのくだりは千代さんがフィクションキャラなので置いておくとして、関ケ原の戦いは桶狭間の戦いから40年後、ドラマで宇喜多秀家が「昔話じゃないか」と言っていた通りなのですが、桶狭間を戦った武将ってもはや伝説なわけです。
あ、だからもう本多忠勝も榊原康政も50代よ。
今でこそ鳥居元忠の伏見城以外での活躍って?ってなるけど、もちろんググればいっぱい出てくるのですが、桶狭間から戦い抜いて大名になった人なんて当時は多くの武将にリスペクトされてるわけですね。
鳥居元忠と戦うぞーっていうのは長嶋茂雄と野球するぞーと同じくらいの感覚なんじゃないかな。
2000人ほどの兵で4万の敵を相手に10日以上耐えての討ち死には今もなお語り継がれる伝説ですね。
なお、討ち取ったのはドラマでは名前出してくれなかったけど鈴木重朝、ゲームではおなじみの雑賀衆です。
一騎打ちなのに至近距離で鉄砲っていう謎の演出だったけど。
あの距離で2発目撃つための弾込めしてたのでしょうか。
その間、家康は小山から江戸に帰り、江戸で書状を書きまくります。
伏見城落城が8月1日、家康が江戸に着いたのが8月5日だから全然間に合ってない。
なので話は遡るけど、小山評定。
突然山内一豊が出てくるのね。
2006年大河「功名が辻」の主人公で上川隆也が演じました。
ゲームでのイラストもあんな豪快なスタイルじゃなかったので違和感ありましたが、槍働きで手柄を立てて大名になった人なので意外とパワフルな見た目してたのかもしれません。
あのシーンは功名が辻でのクライマックスで、妻の千代に「どうしよう」って相談して「真っ先に城ごと家康にあげちゃいなさい」って言われて飛び出した部分ですね。
城を差し出すまでのセリフは無かったけど、一豊は居城の掛川城と蓄えの兵糧を家康に差し出して戦後に土佐一国をもらうのでした。
もちろん幕末の坂本龍馬の主君山内容堂の先祖です。
継いで福島正則が味方することを表明しますが、事前に家康と打ち合わせしてあった説もあります。
で、家康は江戸に留まって東軍諸将を先行させるのですが、東軍諸将は家康が止めるのも聞かずにどんどん進撃していきます。
岐阜城を攻略するまでにも何度か戦いがあるのですが、岐阜城の城主は織田秀信、信長の孫ですね。
清州会議で秀吉に抱かれていた子供ですが、あれから18年、元服して岐阜城主になっていました。
環境が環境だからいまいち個人の能力はわからないし、信長譲りの才能があったとしても才能を伸ばせるような戦をする機会もなく、関ケ原の戦いの前哨戦で破れて高野山へと追放になった不幸な人でした。
なお、戦後岐阜は奥平信昌に与えられて岐阜城は解体、麓の加納城の材料となりました。
そして、前哨戦が起こったことによりある程度敵と味方が確定して、書状も一通り送り終えたところで家康出陣、で今回は終わりです。
小早川秀秋が悪そうな雰囲気出していましたが、小早川陣中にはこれまた奥平さんがいます。
信昌の叔父貞治ですが、小早川秀秋に内応を取り付けた家康が監視をするために貞治を軍監として小早川陣に送っていたのです。
だから家臣の前で「どっちにもつける準備しとけ」なんて言ったらダメです。
小早川陣には両方の軍監がいるので両方に筒抜けです。
家康を悪い人にしないように他の人を悪い人にするっていうクセのあるドラマですね。
次回はいよいよ関ケ原、誰が悪い人になるのか、お楽しみに!