Diabolo
神の敵とはなんだろうか。
例えば仏教において仏の弟子たるものたちが鬼のような顔をして剣と鎧で武装していることがある。鬼のような顔をした不動明王や帝釈天、大黒天(閻魔)などがそうなのだが、これは別にある確定した敵に対して過激派が牙を剥き出ししているわけではない。そもそも仏教には敵がいないのだ。
では何に対して敵意を見せているのかというと、それは修行の邪魔をするもの、つまり煩悩である。
仏は煩悩の存在を認めている。煩悩を否定していない。
仏教の最終目的は苦行の上に悟りを開いたり仏陀になることではない。
人には絶対に煩悩があり、それは取り去りづらいものである。仏はそれを認識しているので欲深い人間を見捨てたりはしない。それを取り去るために最大限努力することこそが仏教の最終目的であるとしたのだ。修行は手段ではない。修行こそが目的。悟りを開いたのでハイ修行終了、というわけではない。悟りを開いた後も、いやむしろそこから真の修行が始まるとさえ言われている。
そして真面目に修行をしているものには仏が手を差し伸べてくれる。取り去りがたい煩悩を鬼面の仏弟子たちが消滅させてくれるのだ。
最近2chの洒落怖話に時々登場する寺生まれのTさん。迂闊に読んでしまって眠れなくなったりトイレに行けなくなったり髪を洗えなくなったりしたねらーたちの強い見方である。
だが幽霊にしろ妖怪にしろ仏教界にそんなものは存在しない。人は死ぬとすぐに魂が六道のいずれかに落ちたのち輪廻転生で別の命に生まれ変わる。現世をさまよう幽霊の出る幕なんてないのだ。
当然対幽霊用の術式なんてものはもっていない。だから幽霊話に寺に駆け込むのはそもそもお門違いである、大工にビーフストロガノフを作れとねだったりプロボクサーに芥川賞を取れと言っているようなものだ。
対してキリスト教の敵。これは言わずもがな悪魔である。悪魔は煩悩などの概念と違い一つの形として存在している。悪魔は人の裡にいるのではなく、悪魔という種として存在しているのだ。彼らは人々を甘言で誑かし唆して堕落させ、最終的には魂を奪う。
悪魔の正体はエデンの園の蛇とも、堕天使サタンとも言われており、聖書において度々神に戦いを挑んでいる。また神の子キリストの前にも何度か出現している。そして都度神の力によって敗走を余儀なくされているのだ。
カトリックは決して認めてはいないが、フィクションの世界においてはキリスト教には悪魔祓い専門の教徒がいて神の武器を使って悪魔と戦っている。こうして現在に至るまで神と悪魔の戦いは続いている。
だがよく考えてみるとこれはどうにもおかしい。
神が全知全能ならば、悪魔が存在しうるわけがないのだ。神の力でとっくの昔に悪魔など消滅させられているはずだ。
つまり逆に言えば悪魔がいるということは神がその存在を許しているといえる。穿った見方をすれば、神は悪魔という存在に対して必要を感じているのだ。
例えば僧都がこんな宗教を立ち上げたとする。
神を信じましょう、人には優しくしましょう、人を傷つけてはいけません。セックスが気持ちいいからって子作り目的以外にしちゃいけません。ごはんは質素にして貧しい人に分け与えましょう。贅沢しちゃいけません。
誰も僧都を信仰しないだろう。言ってることは正しいが、これは道徳・倫理の問題であって人の信仰心を掴むことはできない。
こんなことを言ったら罰当たり、というのは仏教か。神罰が下るかもしれないが、宗教を一つの営業と考えるならば信者獲得においてのコピーとしてはインパクトに欠ける。
現実問題として我々が一般社会でどんなに良い行いをしようとも、悪いやつは必ずいて正直者は馬鹿をみるのだ。
だからそういう社会を跋扈する『悪魔』を退治します!というぐらいの広告力は非常に有効である。これでもう我々は酷い目に遭わないで住む。悪い奴がやっつけられるなら清々する。
実際に悪魔というものは存在しない。これはこの宗教の信者数を伸ばすためのでっち上げである。悪魔そのものに意味はない、というか社会においてのマイナス要因ではあるが、『神が悪魔を打倒する』ということは人々にとって非常に意味がある。
悪魔は装置である。悪魔は悪の限りを尽くして神によって倒されるために製造された装置。だから悪魔は神に絶対勝てないし、自ら消滅することも許されない。神の偉大さを証明するために決して勝てない戦いを延々と続けさせられる奴隷である。
まるでばいきんまんだ。ばいきんまんはアンパンマンに執着していつまでも勝てない戦いを挑んでいるが、彼の科学力と行動力があれば十分残りの人生幸せを過ごしていけるだろう。アンパンマンにこだわるからいつまも不幸なのだ。
だがばいきんまんのいない物語での視聴者獲得は相当難しいだろう。毎度カバ男に自分の顔を食べさせるだけのアンパンマンに一体どれだけの子供が食いつくというのだ。
アンパンマンは恐らくばいきんまんを殺せるだけの力を有している。だがそれをしない。それは創造主であるやなせたかし、じゃなく監督かプロデューサーが決して許さないのだ。ばいきんまんは舞台から消えてはいけない。いつも半殺し止まりでアンパンマンに復讐を誓う存在でなければならない。
悪魔には『悪の源』と『正義に決して勝てない』という二つの意味が内包されているのだ。
こっちに来てからの方が日本の本を読んでいるような気がする。図書館に日本の本が結構陳列されているのだ。恐らく僧都のような短期移住者の寄贈本だと思うのだが、それだけに日本の図書館よりベストセラーが置かれている。しかも当たり前だが日本人しか借りないので『貸し出し中』があまりなくてひょいひょい借りられて便利だ。
最近宮部みゆきの『模倣犯』を読了した。
生意気言うようだが、僧都はあまり宮部みゆきのどうにも生温い表現が好きじゃなかったのだが。それを差し引いても模倣犯は面白かった。
ヒロミとピースは共に快楽殺人犯である。だがその二人の快楽は意味合いがまったく違う。ヒロミはテンプレであり殺人に対してサディステッィクな快楽もつシリアルキラーである。だがピースは殺人そのものより、その非日常的行為によってこの世界の『物語』が大きく変化することを楽しんでいる。被害者がどうなり、被害者の家族がどう嘆き、マスコミがどんな風に取り上げて、専門家が聞いたような口を利く。それが楽しくて仕方ない。
殺人シーンについてはあまり描写がないのでわからないが、恐らくピースは最初の母親殺害以外ほとんど殺人行為はしていないだろう。そして本人が述べていたとおりピースはヒロミを仲間ともなんとも思ってなく、人を殺す特殊な駒としてしか見ていなかった。
ピースは世界を一つの舞台として考えていた。そして自分こそがこの物語を演出する創造主だと。大衆は観客に過ぎない。
大衆を楽しませるためには事件が必要だ。誰も平凡な日常など必要としていない。
そして事件には犯人が必要だ。ピースは偶然にもヒロミという悪魔の駒を手に入れることができた。しかもヒロミはピースを崇拝しているので何でも言うことを聞く。自ら手を汚さなくても、演出家(=神)としてピースは物語を紡ぐことができる。
悪魔はテレビに電話出演する。劇的な効果だ。日本中に正体不明悪魔がいることが知れ渡る。大衆はそのどこにいるかもしれない悪魔に戦慄する。
そして中盤ヒロミと高井が死んだとき、ピースは大笑いする。駒を失うということはゲームにおいて不利以外の何者でもないのだが、ピースにとって不利というのは物語のスパイスでしかない。ああ、これで物語が面白くなったとピースは考えた。第二章の始まりなんだと。
案の定大衆はヒロミと、無関係な高井を『悪魔認定』する。『どこにいるかわからない悪魔』から『確定した悪魔』に大衆は『安堵感』を覚える。怒りのぶつけ所、拠り所を大衆は手に入れた形になる。
事件が収束する前にピースは次の悪魔を作り出す。高井の妹だ。
高井の妹は兄の無実を訴え、その暴走は被害者家族を傷つけてしまう。もちろんピースの仕組んだことだ。
彼女が日本中から攻められたところで、ピースはその姿を表舞台に出す。
そしてピースは高井の無実を訴え、警察の無能さを罵倒する。見てくれがよく、頭もいい、そんな『大衆受け』の良いピースに世論は大逆転する。高井無実論である。次の悪魔は警察となった。
次第にピースに疑問を持ち始めた高井妹を早々と自殺させ、次の悪魔をジャーナリスト前畑滋子とした。
誰も神たるピースに勝てない。すべてはピースが作った物語なのだから悪魔はただ勝てない戦いし続けなければならない。
ピースの賢いところは、常に悪魔を作り続けたところだ。大衆には悪魔が必要だと考えていたのだ。凶事が起きたときに怒りのぶつけ所がないと人々は不安になる。だからピースは大衆のニーズに答えて悪魔を作り続けてきたのだ。
東日本大震災の際、たまたま僧都は休暇で日本に帰っていた。だからリアルタイムで地震を経験している。もっとも北海道なのでほぼ被害はなかったのだが。
地震が起こり、津波が来た。
地震直後、素人の僧都からみても日本のマスコミは混乱していた。報道フロアからヘルメットをかぶって画面に現れたり、誤情報が飛び交ったり、局によって報道がまちまちだったり、不適切発言を連発したり、屋上から助けを求める人をヘリで煽った挙句放置したり。
たぶん最初の悪魔はマスコミだった。人々はこの起きてしまった誰のせいでもない天災に対して怒りのぶつけ所が欲しかったのだ。だからまともに機能しないマスコミをたたき始めた。
そして次に原発。東電の対応が混乱に拍車をかけた。ここでマスコミはここぞとばかりに東電を叩き罵倒する。もともと情報操作はお手の物なのだ。平謝りの東電に対してマスコミの口調はあくまで強硬で返って視聴者が不愉快になるほどであった。だがその界あって大衆にとっての悪魔は東電になった。
そして政府の対応。総理の現地視察が作業の邪魔となったといううわさ、曰くつきの仙石の復帰、枝野の詭弁。
保安院の無能ぶり、芸能人の売名、不謹慎バラエティー番組の復活、在日の人々のいち早い逃亡、邪魔になるボランティア、俺たちが神だ、都知事の天罰発言、ユニセフ義捐金詐欺疑惑、東電副社長がキャバクラで靴下脱いだ、どさくさの竹島教科書問題。
今回の震災で大量の悪魔が必要になり、そして作られた。
みんな悪魔がいないと不安なのだ。悪魔ならば倒すことができる。糾弾することができる。震災は天災だが、起こってしまった悲劇に対して、どうして起きたのか理由が必要だったのだ。
誰も神を求めない。みんながみんな『誰かのせい』にしたかったのだ。それが悪魔だ。
そのころ不謹慎厨という言葉が流行っていた。震災に際し不適切な行動をした人への糾弾を行う人たちの総称だったのだが、最終的にはどんな行動にも悲劇を連想させると不謹慎認定しているおかしな集団になっていった。キャイーンの天野君もツイッターで『こわい』と発言しただけで炎上したというのだから恐ろしい。もはや言葉狩りである。
奇妙なことだが、この不謹慎厨は実際に被災した人間に多くないらしい。つまり被害者でも二次災害加害者でもないほぼ無関係の集団が『被災者の意を汲んで』行動に及んでいるということだ。
恐らく彼らは正義の味方のつもりなのだろう。むしろ震災の影響でに自動的に正義の味方になったともいえる。そして被災者は守るべき存在。
日本においては『正しい行動をするもの』が正義の味方ではない。それは正しい人でしかない。
『悪を叩き潰すもの』だけが正義の味方を名乗れる。悪魔がいなければ正義は立ち行かぬ。
だれもみな悪役をやりたくはない。悪役は絶対に最後には倒されなければならないからだ。
だから正義の味方による悪魔狩りが行われた。
彼らは誇りと優越感と狂信的執念をもって悪魔に探し出し、虐殺の限りを尽くすだろう。
僧都にはその正義の味方たちがディアボロに見える。