先日の「守口宿」紹介の際に「文禄堤」の事も、ちらっと言いましたが
その紹介も少しやりたいと思います。

「文禄堤とは文禄5年(1596年)に豊臣秀吉が京都の伏見城と大坂城を結ぶ
最短距離の道として毛利輝元、小早川隆景、吉川広家などに命じて淀川左岸の
堤防を改修整備させたもので、後の江戸時代になると堤の一部の上にまたがる
「守口宿」が築かれた」
とあります。

現在の大阪府枚方市から大阪市住吉区長居まで及ぶ全長27kmにも及ぶ
大規模な堤防だったそうですが明治以降の度重なる淀川改修工事でほぼすべてが
破却されてしまいここ守口に僅かにその跡が残るばかりと成ったようです。
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近代的測量に於いて作られた最古の地図(明治初期)には確かに淀川は
この堤に沿うような形で流れているのが確認できるようです。
*写真は本町橋で、袂の石垣が「文禄堤」の断面です。
左右に走る道路がちょうど堤防を横切っている形
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こちらは上の本町橋から数十メートル離れた守居橋
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石垣部分が「文禄堤」堤防の断面だそうです。
人との対比でその規模がわかりますが、相当大きいですね。
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この幅のものを27kmも作ってそれが僅か2年で完成とは相当急ピッチな工事ですね。
現在の災害復旧事業でも2年ではとても出来ないと思います。
(予算度外視すれば可能でしょうけれど・・・)
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そして後年1616年頃作られた「守口宿」の一部がこの文禄堤の上まで展開
したそうですが、ご覧のように現在では「堤防」の上にマンションまで建っています(笑)
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この画面で云えば向かって右手に当時は淀川が流れていたようですが
(明治初期までも)現在はココから距離を測ると約1130mも淀川とは離れています。*川辺りまでで約1000m

何もかも破壊するなとは勿論言いませんが、逆に何一つ残さないのも
余りに惜しい気もしました。

日本の象徴的な「城」でさえ江戸後期の一番減った時で200程残っていた物が
明治維新で破壊し尽くされて現在12城のみ。

それすら往年の”生きていた姿”で完璧に残るのはありません(内装まで含むと)

中国は歴史的にその時代に覇権を握った者は先代の王朝の
あらゆる物を破壊し尽くしたが、日本も大して変わりない気がします。

明治維新も未だに”謎”にされている話が多すぎて「御一新」も
所詮只の”支配層”の交代劇(テロ)だったのかなと思ったり・・・。

そういう有象無象を考えさせてくれる遺構はやはり貴重ですねヒヨコ