とりあえず学校の過程(英日)を終え、
プロとして翻訳者リストに入るためのトライアルを受けました。
提出してから1ヶ月待ってやっと出た結果は、不合格。
もう少しで合格という次点にさえ入っていませんでした。
残念ですが、気持ちを切り替え次に向けてがんばろうと思います。
このトライアルは2ヵ月に1回あるので
早速もう次のテストの申し込みを済ませました。
次回は、今月末から来月の頭までが試験期間です。

実は学校の別の課程(日英)を春から取ることにしたので、これから私は、
仕事をしながら、学校の課題をこなし、その中でトライアル試験を受けることになります。

・・・ぞーっ。

というわけで、来月の半ばまではこのブログを書いている暇はありません。
5年前に買ったノートパソコンの調子が急に悪くなり
ウィルスにでもかかったかなとパソコンのお医者さんに出しました。
結果、「HD(ハードドライブ)が駄目になってます。新しいHDに交換しますか?」
と言われました。

パソコンで画像をいじったり映像を観る私は、
スクリーンは大きい方がいいと思って、大型のノートパソコンを買いました。
しかし、カフェやベンチで小型の軽いパソコンを使っている人を見ると
持ち運べると外でも仕事ができて効率がいいかな、と思うようになりました。
今回のHDの件で、これは買い替え時かもしれないと思ったのです。

とりあえず、HDの取替えをせずにこのパソコンのことは諦めて
捨てるか寄付でもしようと思いました。
HDが駄目なので、おそらく売れません。
そして新しいパソコンのリサーチを始めました。
しかし考えが少しずつ変わってきました。

まず、私のパソコンは意外に性能がいいパソコンで、
これよりレベルが上のものにしようと思うと結構な額になると分かりました。

それにシンプルライフ視点に立ったときに、はたと気付いたのです。
「直せば使えるのに、新しいものを買う」というのは、
消費文化の考えに犯されている表れなのではないかということです。

壊れたなら直して、また使えばいい。
どんどん新しいものを取り入れるのもいいけど、古いものも直せば価値は保たれる、
という気分になってきました。

今のソフトウェア事情についても分かったことがあります。
昔は、何かのソフトが欲しかったらソフトのCDを購入し、
それをパソコンに入れてインストールするという形でした。
その後ソフトは、ネット上から直接ダウンロードできるようになりました。
そのかたちが主流になると、今度は月額・年額を払い続けている間だけ使えるソフト、
というのが出てきました。
ソフトを買うというより、ソフトを借りている状態です。
このシステムのうたい文句は、「常に最新のバージョンを使える」ということですが
古いバージョンを長く使う人間にとっては、高い買い物です。
元から常に新しいバージョンを買っていた人にとっては安くなったかもしれません。
しかし古いバージョンでいいと思う人間には、経済的に辛いシステムなのです。
ソフトウェア産業では、この販売方法が主流になりつつあります。
自動引き落としで、ずっとずっと引き落とされ続けていく仕組み。
(途中で止めることはできますが、気持ち的に・・・ねぇ。)
お金が払えなくなると、ソフトが使えなくなるのです。

古いものは、新しいもので上書きされていく。
それが消費文化の定義というか正義なんでしょう。
iPhoneの新型が出るたびに、ケースや充電器の全てを買い換えなければいけないのは、
この消費システムのあり方のせいなのです。

私はちょっと怖くなりました。

結局、HDを交換することにしました。
部品と作業代で2万円少しです。
映画をたくさん観て、感想を書く人、レビューを書く人、評論を書く人、色々いますが
そもそもその違いはナンなのだろうと思います。

映画評論家の町山智浩さんが、映画評論家でもある宇多丸さんと言い合いになっている
ラジオを聴きました。
そこで評論家としては知名度が高い町山さんが、
少々偉そうに言っていたことを書き留めてみました。
「映画を評論するとき、好き嫌いを語ってもしょうがない」
「映画の出来や不出来で評価しても仕方がない。
 駄目映画がよい場合もある」
「作り手のテーマがイデオロギー的に良いか悪いかで評価しても駄目。
 つまんない映画が評価され、面白い映画がけなされるときがある」

確かにそうなような、いや、違うんじゃないかと思うような・・・。

昔、大学の哲学のクラスで言われ、未だに頭に残っていることがあります。
何かを論議するとき、使用される言葉や認識についての定義を明確にしないと
論議が行き詰ったり無駄に終わる、ということです。

例えば、「評論」という言葉ですが、
この評論についてのそれぞれの認識が違うが上に、たまにあちこちで
「こんな評論をするやつは評論家とは呼べない」とか
「それは評論家のすることじゃない」というなんだかわけの分からない論争になるわけで。

そもそも、「良い映画」「つまんない映画」「面白い映画」の定義はなに?
私は寧ろ、この人は「映画評論家」というよりも「映画解説者」だなと思います。


さて、ここに言葉の意味を少し書いておきます。(三省堂 大辞林)

評論:物事の善悪・価値などについて批評し,論じること。また,それを記した文。

批評:事物の善悪・優劣・是非などについて考え,評価すること。 「文芸-」 「作品を-する」

レビュー:①評論。批評。書評。②評論雑誌。

感想:あることについて,感じたり思ったりしたこと。所感。感懐。 「読後の-を語る」 「 -文」 「高遠幽深なる関係を-する/欺かざるの記 独歩」

解説:(専門家などが)物事の内容・背景・影響などをわかりやすいように説明すること。また,その説明。 「世界情勢を-する」 「ニュース-」 「 -者」

なんだ、評論、批評、レビューはほぼ同じですね。
どれだけ作品の背景と影響を考え、また資料を基に考察するかが「感想」との違いでしょうか。
でも自分の意見を最終的に入れるのが批評ですよね。
資料に基づく理由を付けて自分の意見を説明するのが、評論家なのでしょう。
ただの感想家でも、そういう感じで書いてくれたら読む方も面白いです。
感想家と評論家の線も曖昧であったりするかもしれません。

・・・ん?なんで「感想家」というようなカテゴリーがないんだろう?
そこがややこしい理由じゃないか?
感想家が評論家(レビュー)とごっちゃになってしまうから、揉めるんだきっと。

評論家が、「この点でこの作品は優れており、この点で劣っている。
しかしこういう観方をすれば、これについて評価できる点がある。」というようなことならば
「この点で、私はこう感じた。あのシーンは胸に突き刺さるものがあった。」というのは
感想家のやることなのでしょう。
感想家はきっと、映画コメンテーターとか映画エッセイストと呼ばれるのでしょうかね。
それを評論家とごっちゃにするとよくないのかもしれません。
評論家や感想家が自分で曖昧にしている部分もあるし、
読む方も混乱しているのかもしれません。


町山さんは、私にとっては「映画解説者」と呼んだ方がしっくりくる。



あともう一つ。
誰に向かって評論を書くかで、色や内容も変わりますよね。
小難しく、深読みの深読みをする、普通の人が読んでも分からないような評論が
映画を普段観ないような人に向けたファッション雑誌で書かれる評論よりも
格が上、というような感覚は、正しいのかどうなのかも、考えたくなります。

結局は、幅広く色んな人がいることが一番いいのでしょうね、きっと。
そして議論することが大切?