今回の投稿で考えをまとめることができる自信はありませんが
最近よく考えることがあります。
そのことについて、少し書いてみようと思います。

「優しい人」とはどんな人のことでしょうか?

私は、自分は優しいと思っていたのですが
最近それは間違っていたかもしれないと思うようになりました。

それは、友達にそれを指摘されたからです。

私は、人見知りをする、人が苦手な部類の人間で、
できれば人に会わずに1日を過ごしたいと思うことが多いです。
こんな自分が比較的優しい人間だと思っている理由は、
自分は人を批判することが少なく、相手に過剰に何も求めない人間だという
自分像というのを持っているからです。
つまり、自分が自由でいたいので、相手も自由にすればいいんじゃない、という考え。
人が不完全でも、失敗しても、誰かに迷惑をかけていても、
それはそれでその人らしさであり、私は人に自分の価値観は押し付けない、
だから私は優しい人間だ、というようなイメージがありました。
1人でいる人も気持ちも分かる、はみ出てる人のことも分かる(と思う)。
たぶん自分がそうだと思っているから。

私の友達は、よくできた日本人の典型のような人。
よく気が付き、何も言う前からささっとお手伝いや下手にまわる行動に出て
プレゼントは欠かさず、おもてなしの心を持ち、
人が入院すれば手作り料理を持ってお見舞いに行き、
とにかく「よく気がつく人」なのです。

そういう人からすれば、私のような人見知りで気が利かない人間は
「自分勝手でわがままで冷たいとも感じるし(もっと柔らかく言われましたが)、
 なのに自分が優しい人間だと思っているようだから、不思議だわ」だそうでして・・・。

「優しい人ってこういう人だと思う」と彼女は私に語ります。
自分を犠牲にして、人のために尽くし、気を利かせ
礼儀を重んじ、思いやりを行動に移し形として贈ることが自然にできる人。

ふと客観的に考えてみました。

彼女の意見はまぁ正しくて、
相手が喜ぶであろうことをあえてしないより(というか思いつかない)、
喜ぶであろうことを「する」方がやっぱり優しい行為なわけなのです。

「人が苦手だから」というのは、ただの優しい行為をしない言い分けではないか、
と言われました。
自分が好きなことはやるくせに、優しさの行為に対しては「人が苦手」とか言うのね、と。

・・・彼女は間違っていません。
つまり、人が苦手な人・1人が好きな人は、もともと自分勝手なんです。
自分のことばかり考えているわけなんです。
・・・そうなんでしょうか。
そうです。
・・・いやそうじゃないと思いたい。
いや当たってるような気もする。

常々思うことがあります。
どうして気が強く人見知りしない人が、何気なく人に声をかけるだけでその人を元気付けられるのに
大人しくて人が苦手な人は、誰の役にも立てなくて、
人に迷惑をかけず相手を批判せず自分のために生きようとしたら
自分勝手で冷たいと思われてしまうのでしょうか。

思っているだけで行動にひとつ移さない人は、本当に優しい人ではないのでしょうか。


そんな話を別の友達に話したら
それって「nice」と「kind」の違いじゃないの、と言われました。
人は「nice」だったりするけど、それは「kind」じゃないこともよくあるよね、と。
・・・確かにあるな。


あなたにとっての「優しさ」ってなんですか?
優しい人ってどんな人ですか?

想うだけでも「優しさ」ですよね。
行動が伴う「優しさ」は行動が伴わない「優しさ」より、もっと優しいのでしょうか?
それとも優しさには、もっと優しいとかあんまり優しくないというような
レベルがあるのでしょうか?

いわゆる「気が利く」「気を遣える」人の方が、それができない人より優しいのでしょうか。
優しい人なら「気が利く」のでしょうか?
「気が利かない人」は優しくない人なのでしょうか?
気を遣うことができない人は、「できない」のでしょうか、ただ「しない」だけなのでしょうか。

彼女の意見が、完全に正しいというわけではないかもしれないけど
ある程度の真実も混じっているわけで、ドキッとしたわけですな。
自分の罪悪感を人に押し付けるのもどうよと思うけど
それを真に受けてショックを受ける自分もアレだなと思ったり。

とりあえず私はもう少し謙虚に生きようと思いました。


関係ない写真コーナー

ワイオミング州にあるイエローストーン国立公園に行ってきました。
自分をせっせと撮ったので、誰も写っていないいい写真があんまりなかった・・・。
あとビデオを結構撮りました。
そういうわけで、いい写真がありません。
今日、英語を話さない外国人に腹を立てているアメリカ人が、
なにやら外で騒いでいました。
「英語喋れよ!」と誰か外国の人に不満をぶちまけてるようでした。
私は彼に何があったのか、怒っている相手は誰なのかよくわからなかったのですが、
アメリカに住む外国人として、言われたら辛い言葉だなと思いました。

移民として暮らしてると、現地ネイティブに言われて一番悲しいのが
「自分の国に帰れ」と「ここの言葉を話せ」です。

アメリカ、特にロサンゼルスは移民が多いです。
ロスの人口の半分は移民と言われています。
サンフランシスコに居た時もそうですが、
街中に出ると、必ず外国語が聞こえてきますし
暮らしの中で英語が通じない人と話しをしなければならないシチュエーションも
必ずでてきます。
外国人だらけですから。
カタコトの英語しか喋れないのに、日本から仕事の関係で派遣された人や家族、
専門の勉強で来ている人、ただ住みたいからという一心で来た日本人も
たくさんこの国にはいます。
難民や貧しい国から来た人も多いです。
アメリカは、それを一生懸命受け入れようとしながら、
また、そのしんどさや煩わしさも体験している国です。

全く英語が話せなかった私を23年前に受け入れた国、その国の人が思わず
「英語喋ってくれ!」と言ってしまう…。
分からないでもない、私だってそう思う時があります。
英語が話せない店員やらタクシー運転主や電話の相手だとがっくりする時があります。
通じないから。
英語ネイティブの人がカスタマーサービス係だとほっとするんです。
分かりやすいし、通じるから。

日本では、外国人に優しいかな、
「日本語喋れ」とか「自分の国に帰れ」とか言ってないかな、
とツイッターでつぶやきました。
すると友達が数人、予想外の答えを返してきました。

「日本人は、そんなこと外国人に絶対言わない。
 外国人に話しかけられたらドギマギして固まるし。
 そんな事言うアメリカ人が全く分からん。」

いや、観光客の話じゃなくて、そこに住んでる人の話よ、と言うと

「日本に住む外国人だって、挨拶くらいの日本語は話すでしょう。
 それでいいじゃない。
 日本語喋れとか思わんよ絶対。
 日本語喋れとか、そんな攻撃的には日本人はならない」

という反応でした。

…私は…、私は、アメリカの人が「英語喋ってよ!」と思う気持ちも分かるんだなぁ。
その気持ちをみんな押さえ込んで、消そうとしながら生きているのです。
それが分からないのかも、日本に住んでいる人は。
日本に住んでいる日本人には、日本語が話せない人に囲まれて暮らしているうちに
つい「この国の言葉喋ってよ!」と思ってしまう気持ちが理解し難い。
そんなことを言うのは悪い事、というのは知ってるらしい。
だから、そういうことを言いたくなる人を、「信じられん、そんなんここではあり得ない」
みたいになってしまう。
ある意味、平和なんだと思う。それはそれでいい事だと思うし、
日本人にはこの苦労やもやもやをずっと知らないられるならそれでいいと思う。

アメリカが人種差別問題で大揉めしてても、日本人に分かるはずかない。
生きている世界が違うし、認識のレベルが違い過ぎて説明のしようもない。

そんな気にさせられました。

まぁとりあえず、友達曰く
日本人は外国人に「自分の国に帰れ」とか「日本語喋れ」とは
言ってないようですので、よかった。

というか、私も言われたことないですよ。
誰かが誰かに言っているのは聞いたことはありますが、
自分に言われたことは、1回くらいです。
移民や外国人が好きではないアメリカ人は居ます。
でも、大多数はどうにか移民を受け入れようとしてくれています。
移民である私は、アメリカは忍耐強い、懐の大きい国だなぁって思うのです。
日本もそうであって欲しい。

いや、日本とアメリカを比べることすら間違っているのかも。
何か根幹がそれぞれ違う。
私がフォローしているYouTubeチャンネルに「Crush Course」というのがあります。
短い時間で「世界史」「経済学」「物理学」「文学」他いろいろを、
分かりやすく説明してくれる動画チャンネルです。
その中で私が好きなのは「哲学」と「心理学」。
特に「哲学」が面白くて一気に観てしまいました。

哲学は、「真理」「真実」を知ろうとする学問であるようです。
「哲学的にみた神様(GOD)」の動画がありまして、
その中で私の頭に残った話があります。



まず「神様とはこういうことである」という定義から始まり、
それを証明したり覆したりする論争を繰り返すわけなのですが、
私が特に面白いと思った論争が…

神様というのは「なんでも出来る人、出来ないことはない人」という定義があり、
もしそうならば、
『「誰も持ち上げることが出来ない重い岩」を作ることが出来るのか』という疑問に
神様がそれが出来ても出来なくてもおかしい、ということになるという論争です。

だって、神様はなんでも出来るなら、どんな岩でも持ち上げられるはず。
でも、なんでも出来るなら、誰にも持ち上げられない重い岩も作れるはず…。ということですよ!

面白いなぁ。どうなってるんだこれ。

今日の教会の説教でも思ったんですよ。
かの有名な「99匹の羊を残して迷子の1匹の羊を探しに行く神様」の箇所だったのです。
神様って、どこにでもいて、いつも側にいて、全知全能なんじゃ?
なんで羊を「探しに」行かないといけないのですか?
と私は思いました。
なんで失くしたコインを探さないといけないんですか?
どこにあるのか知らないの?、と。

まぁ、神様が探しに行くというよりは
「どうせそこにいるのは分かってるんだから早く出てこいよ」
というメッセージなのかなと勝手に思うことにしましたが。

それにしても、神様がいるとかいないとか、
証明しようとしたり、逆にその理論の弱さを指摘し覆したりする哲学者の多くは
心の底では神様を信じているというのが、なかなか面白いです。
神様を信じているのに、それを真実として証明できない。
哲学者としてはもどかしいでしょうねぇ。
いや、寧ろ哲学者にとっては、答えが出ないことを延々考えるのが楽しいのかもしれない。