良泉寺」から10分強国道15号線を歩くと、「京浜子安駅入口交差点」に着きますが、この近くに珍しいものがあるので行ってみることにしました。

 

    

交差点右の路地に入り、50~60m歩き、左の路地に入りましたが、その路地も同じように自動車も通れないような狭い路地でした。

 

左折した20mほど先右側に、手押しポンプの付いた井戸がありましたが、この井戸は「浦島太郎の足洗井戸」と呼ばれ、竜宮城から帰った浦島太郎が子安浦にあがり足を洗った井戸といわれています。京急神奈川新町と京急子安駅の間の地名は「浦島町」といい、また「滝の橋」近くの「慶雲寺」の別名「浦島寺」と呼ばれているように、この辺りには浦島太郎に関わる言い伝えが多くあるようでした。

 

「浦島太郎の足洗井戸」の1分ほど先左手に同じような手押しポンプの付いた井戸がありました。これは銭湯井上湯の井戸ですが、井上湯は閉店した旨の張り紙がのありました。

 

井戸のある路地から国道15号線に戻り、再び歩き始めました。

 

    

国道15号線を10分強歩いていると、歩道の車道側に「トマトケチャップ発祥の地」と刻まれた赤い柱が立っていました。

 

柱の反対側、マンション敷地の歩道に面したところにその説明板がありました。

横浜開港から3年後の文久2年(1862)、居留外国人「ローレイロ」が菜園を作ったのを皮切りに、多くの居留外国人が山手に農場を開設し、根岸、磯子、子安など近隣農村へと西洋野菜栽培が急速に広がって行きました。

子安で西洋野菜栽培が始まったのは慶応2年(1866)頃です。子安は東海道に面しており、東京と横浜の中間地点で2大消費地への出荷が容易であったことに加え、西洋野菜栽培に適した土壌と人々の栽培研究努力から、子安村での西洋野菜栽培はどんどん盛んになって行きました。

 

明治29年(1896)には地元の「清水與助が「トマトケチャップ製造会社清水屋」を初めました。その後途絶えてしまいましたが、150年が経った現在、長野県でトマトソースを作っていた丸山和敏さんが、ふと「トマトはどうやって日本に来たのだろう」と考えました。その歴史を追っていたある時、横浜開港資料館の地下に眠っていたあるラベルに出会います。それは、清水與助が当時自らデザインした、「清水屋ケチャップ」のラベルでした。

 

明治時代のラベルは、丁寧にフィルムにはさまれ、製造から百何十年経ても、まるで新品のようでした。

ラベルを資料館に寄付した金子とよ子さん(故人)は、清水與助の孫にあたる人物でした。おばあちゃん(金子さん)は幼い頃に與助を手伝った記憶を持つ、言わば與助の生き証人となる方です。清水屋ケチャップと清水與助の精神にすっかり魅せられていた丸山和俊は、ケチャップの復刻を決意。おばあちゃんに協力をお願いしました。

​こうして、おばあちゃんの証言と、横浜市や、資料館の研究員の方の協力のもと、ケチャップ復刻作業が始まりました。2年の歳月を経て復刻版清水屋トマトケチャップがようやく完成しました。

 

このケチャップは、全国のデパートや土産屋および通販で買えるそうです。

 

    

「ケチャップ発祥の地」から約9分、右手にある「井澤造船所」の小屋のトタンの壁に「東子安一里塚」の説明看板が掲げられていましたが、なんともそっけない史蹟でした。

「東子安一里塚」は、江戸から数えて6番目の一里塚ですが、神奈川県内に20か所ある一里塚のうちで唯一この「東子安一里塚」にはその目印になるものがありませんでした。

 

そこで文化3年(1806)完成の東海道分間延絵図に基づき、西側の遍照院と東側の村境(現鶴見区と神奈川区)からの比率から推測されるこの場所に案内板を設置したとのことです。北側の塚には榎が、南側には松が植えられていました。

 

    

「東子安一里塚跡」から約2分で国道15号線は、首都高速「生麦IC」への高架橋とその下を通る「東海道本線の貨物支線」である「高島線」のガードをくぐりました。

 

その途中右手にキリンビールの大きな工場が見えました。

 

    

キリンビールの工場入口の30m程先右手少し奥に小屋に囲われた石碑がありました。

 

これは、「生麦事件碑」でした。

 

文久2年8月21日(西暦1862年9月14日)、江戸を出発した薩摩藩島津久光の一行は、東海道沿いの生麦村で騎乗のイギリス人4人と遭遇し、行列の進行を妨害したとして護衛の薩摩藩士がイギリス人1人を殺害、2人に深手を負わせました。この事件は、翌年に薩英戦争を引き起こしましたが、この戦争でイギリスの近代兵器や文明に圧倒された薩摩藩は尊王攘夷から討幕開国へと方針を変換しました。明治維新・日本の近代化を促進させた事件といえます。

この碑は明治16年、イギリス商人リチャードソンが落命した場所に、鶴見の黒川荘三が教育学者中村敬宇に撰文を依頼して建てた「遭難碑」です。

 

旧東海道はここで国道15号線から分かれ、高架橋沿いに右に進むのですが、せっかくビール工場の前まで来たのですので、ビールを一杯飲むことにして工場内のレストランに行きました。

 

    

午後2時45分頃でしたが、日曜日ということもありレストランはかなりの混みようで30分以上待たされました。しかし疲れた体に冷えたビールは最高でした。

 

ビール工場を後にして約7分、県道6号線との交差点を渡りますが、この辺りの道路は、「生麦の旧道」と呼ばれています。

 

    

交差点から約4分、左手の民家の前に「生麦事件発生の場所」と書かれた案内板が立っていました。下にはその時の様子を描いた絵もありました。

 

案内板から3、4分歩くと左手に「道念稲荷」がありましたが、赤い鳥居が連なっているのが印象的な神社でした。

 

参道入口右に「蛇も蚊も発祥の地」と刻まれた石碑がありましたが、説明板によりますと、

「蛇も蚊も」は、約300年前に疫病が流行した時、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込め海に流したことに始まるとされています。この行事は旧暦の端午の節句の行事とされていましたが、近年は6月の第一日曜日に行われています。

萱で作った長大な蛇体を若者・子供が担いで「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声で唱えながら町内を担いで回ります。

 

「道念稲荷」から約7分、前方にJR鶴見線のガードが見えてきましたが、ここで少し寄り道をして、手前の路地を左折しました。

 

    

国道15号線を横断し、京浜急行の線路方向に1分強歩くと丁字路になりますが、ここを左折すると

 

このような「花月地蔵堂」があるはずでしたが、今は無くなり、後ろにあったコンクリートの鳥居だけが残されていました。

 

この「地蔵堂」は近くの花月園踏切で亡くなった犠牲者を弔うために昭和38年4月に、7人の発起人により建立されたもので、

 

かっては11人の犠牲者の名前が掲示されていました。これを見ると小さな子供が多く犠牲になっていることが分かります。この地蔵堂は管理者の高齢化のため、近くの「慶岸寺」に移されました。

 

つづく