「花月地蔵堂」跡から旧東海道に戻りましたが、元来た道を帰るのではなく、国道15号線を使い、旧東海道と国道との交差点「下野台町交差点」に戻りました。写真は、国道を渡った所から京側の旧東海道を撮ったところです。
国道15号線を渡った先の旧東海道は、ごく普通の住宅地の道路でした。
5分ほど歩くと、旧東海道は賑やかな商店街になりました。鶴見銀座商店街です。
国道15号線を渡ってから10分弱で、「京急鶴見駅」に着きました。
「京急鶴見駅」の高架下を通り越したところにある横断歩道を使い右折して、旧東海道は進みました。
「京急鶴見駅」から1、2分歩くと、西側の歩道に「名主・佐久間家」についての説明看板がありましした。
ここには江戸時代、代々鶴見村の名主を務めた「佐久間家」の屋敷がありました。代官用の玄関‣敷台をもつ当時の建物が2001年までここに残っていました。当時鶴見川がしばしば氾濫し、村に大きな被害を与えましたが、こうした災害時にも村人のために尽力したと伝えられています。
「佐久間家跡」から1、2分歩くとY字路がありますが、その左の角に「身禄道」についての説明看板がありました。
Y字路の左の道は「鶴見神社」の参道になっていますが、この道を「身禄道」と呼んでいました。境内には「富士塚」があり、富士信仰を広めた「食行身禄」の像が祀られているからです。江戸時代富士信仰が盛んでしたが、富士山を登ることはなかなかできないので、富士山を模した塚を築き、これに登り参拝しました。
Y字路を右に進み、県道14号線との「鶴見駅東口入口交差点」を横断し約3分ほど歩くと、左手に「鯉ケ渕公園」がありましたが、その角に「馬上安全 寺尾稲荷道」と刻まれた道標が立っていました。
江戸時代、ここは寺尾稲荷社(現:馬場神社社)へ向かう道との分岐点で、「寺尾稲荷道」と記された大きな道標が立てられていました。寺尾稲荷社は、馬術上達や馬上安全の祈願で知られ、江戸からの参拝者も多かったといいます。当時の道標は、現在「鶴見神社」内にあり、ここにあるのはその複製です。
「寺尾稲荷道」の道標から1分ほど歩くと、前方に「鶴見橋」が見えてきました。
反対側の歩道に移り少し歩くと、右手の植え込みの中に「鶴見橋関門舊蹟」と刻まれた石碑が立っていました。
安政6年(1859)6月の横浜開港とともに、神奈川奉行は、外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に、関門や番所を設けて、横浜へ入る者を厳しく取り調べました。「鶴見関門」は、万延元年」(1860)4月に設置され、左右に杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋で塗られていました。
「生麦事件」の発生により、その後の警備のために、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20か所の見張り番所が設けられました。鶴見村には第5番の番所が鶴見橋際に、第6番の番所が今の京浜急行鶴見駅前に設けられました。
「鶴見橋」は平成8年12月竣工の比較的新しい橋で、美しい橋でした。
「鶴見橋」を渡り切った右手に小さな公園があり、そこに鶴見橋界隈の賑わいと「鶴見橋」についての説明がありました。
鶴見橋界隈は、名産だった梨の木が一面に続き、街道沿いの茶店では鶴見名物の「よねまんじゅう」が売られていました。また、橋のたもとには当時の産物などが運ばれた「市場河岸」がありました。
鶴見橋からの風光明媚な眺めや、市場、鶴見界隈の様子を記した紀行文、歌、俳句、絵などが数多く残されています。
「鶴見川橋」は、徳川家康が東海道を整備した慶長6年(1601)ころ架けられたといわれており、東海道とほぼ同じ歴史を持っています。大正末期頃までは「鶴見橋」の名前で多くの人に親しまれ、日本橋を後にした旅人が初めて渡る橋で、長さ25間、幅3間といわれていました。(多摩川は元禄元年の大洪水以降、渡し船でした)
暴れ川といわれた鶴見川は、幾たびも高水をくり返し、その都度橋は架け替えられてきましたが、平成8年に鶴見川を一跨ぎするアーチ橋としてい生まれ変わりました。
「鶴見橋」から約4分ほど歩いていると、歩道の反対側(西側)に今時珍しい昭和を感じさせる銭湯がありました。
「鶴見橋」から5、6分右手に「市場村一里塚跡」がありました。江戸から数えて5番目の一里塚で、塚の上には榎の大木が立っていました。ここにその一里塚の片方が現存していると説明板には書いてありましたが、現地ではよく分りませんでした。
これがその一里塚でしょうか。
「市場村一里塚」から3、4分歩くと左手に「熊野神社」がありました。
弘仁年間に紀州熊野神社から勧請したと伝えられ、徳川家康が入国に際し武運を祈ったとされる神社です。最初は旧市場村八本松にありましたが、天保年間に東海道沿いに移され明治5年に現在地に移ったといわれています。
境内には、江戸時代の俳人、加舎白雄と大島蓼太が東海道鶴見橋を詠んだ俳句の句碑がありました。達筆で判読できませんでしたが、
”朝夕や 鶴の餌まきか 橋の霜 白雄”
”五月雨や 鶴脛ひたす はし柱 蓼太”
と刻まれているそうです。
また「一茶俳句会」と刻まれた石碑もあり、俳句にゆかりのある神社のようでした。
「熊野神社」から4、5分「市場上町交差点」の左先に「市場の夫婦橋」についての説明板がありました。
川崎宿と神奈川宿の境に2つの橋があり、夫婦(女夫)橋と呼ばれていました。大きい方の橋が架かっていた川は「塩田堀」、小さい方は「市場堀」といい、ともに多摩川から引き入れた灌漑用の用水路でした。東海道を行き来した旅人がここで足を止め、周囲の風物を眺めながら休む憩いの場ともなっていました。狂歌集には、
”花咲けば 橋の女夫の袂にも 香も匂ふらん 梅のさかりに”
とあります。
「市場の夫婦橋」の説明看板から約3分、前方に「八丁畷駅」のガードが見えてきました。
近づいてみると、「無縁塚」がありました。
東海道は、川崎宿の京側入り口から西へ八丁(約870m)にわたり、「畷」という街道が田畑の中をまっすぐに伸びており、市場村との境界まで至りました。そこでこの付近を八丁畷と呼ぶようになりました。
現在の「八丁畷駅から県道101号線との交差点辺りまでが、当時の「八丁畷」に該当します。緑の線画現在の旧東海道のルートですが、ほぼ江戸時代と変わっていません。
江戸時代の記録によると、川崎宿は震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害に度々襲われ、多くの人が命を落としています。不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方々と川崎市が昭和9年に、ここに慰霊塔を建てました。この場所は「無縁塚」と呼ばれ、地元の人々によって供養が続けられています。
「無縁塚」を過ぎるとすぐに右折し、京浜急行の踏切を渡り、またすぐ左折して京浜急行本線に沿って進みました。
左折してから1分弱、左手の線路脇に小さいながら良く管理された地蔵堂と
その横に松尾芭蕉の句碑がありました。
元禄7年(1694)9月、江戸を発ち郷里伊賀に戻る途中、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いを込めて詠んだ句です。
”麦の穂を たよりにつかむ 別れかな”
途中ビルの玄関先に面白いものを見つけました。円筒状のものに何やら文字が書いてあります。当初東海道の宿場町が書いてあるのかと思いましたが、近づいてみると、俳句が書かれていました。ほとんど知らない俳人でしたが、「別座敷より抜粋」とありましたから、何か俳句の会でしょうか。”紫陽花や 藪を小庭の 別座敷”という芭蕉の句がありますが、何か関係あるのでしょうか。
この辺りから街灯に「東海道」の看板が掲げられるようにあり、川崎宿に近づいて来た感じがしました。また看板の下部には「六郷橋」を描いた浮世絵やその説明文がありました。
芭蕉の句碑から約5分、旧東海道は県道140号線との大きな交差点(川崎警察署東側入口交差点)を横断しました。
交差点を横断してから約1分、左手の木の陰に「ここに幸あり」と刻まれた石碑がありました。歌手大津美子に因んど建てられたのかと思いましたが、左に建つ石碑の説明文によると、この石碑は、この石碑が立つ特別養護老人ホーム「恒春園」の設立10周年を迎えるにあたり、広く地域に開かれたお年寄りの憩いと安らぎの場として、末永く幸せな老後が送れるよう心から祈念して、昭和63年11月に、社会福祉法人馬島福祉会理事長「馬島正雄氏」によって建立されたものでした。
石碑から40m程先の路地角の電柱に「川崎宿京入口 ここ」と書かれた案内板がありました。
3年前にはこのような川崎宿に関する説明看板が立っていたようですが、マンション建設に伴い撤去されてしまったようです。
「京入口跡」から約4分、県道101号線(駅前大通り)との大きな交差点の左手前角に2本の石碑が立っていました。
これは、「小土呂橋」の親柱で、かってこの辺りに幅5mほどの「新川堀」と呼ばれる用水が流れており、そのに架けられたのが「小土路橋」です。この橋の親柱が残されていたものを、ここに移設したものです。
交差点を過ぎたところから通りの名前が「いさご(砂子)通り」になりました。
「いさご通り」は、川崎駅前の市役所通りと駅前大通りを結び、衣料スーパー、時計宝飾、提灯額縁、結納品等の物販店、美容院、金融 機関等のサービス業や割烹、居酒屋、中華料理店などの飲食店等、様々な店が軒を連ねる商店街です。「いさご通り」の歴史は古く、江戸時代には東海道五十三次の宿場である「川崎宿」の中心として旅人や商人たちで大変 な活気をみせていました。
さらに1分強歩くと、みぎてのビルの柱の前に「旧橘樹郡役所跡記念碑」がありました。郡役所は、明治11年設置され、橘樹郡内10町111村の行政を司りました。大正13年7月川崎に市制が施行され、大正15年に郡役所は廃止されました。
記念碑の30mほど先、川崎信用金庫の角に「赤城の子守唄」や「人生劇場」の作詞で有名な詩人「佐藤惣之助」を称える記念碑がありました。「佐藤惣之助」は川崎宿の上本陣佐藤家に明治23年12月3日に生まれました。その場所は、この記念碑の西向のビルのあたりです。
そのビルの入り口に「佐藤本陣(上の本陣)跡地」の説明看板がありました。
川崎宿が最も栄えた頃には、上(佐藤本陣)、中(惣兵衛本陣)、下(田中本陣)の3軒の本陣がありました。佐藤本陣には、14代将軍徳川家茂も京都に上がる途中宿泊したといわれています。
本日の行程はここまでとし、「佐藤本陣」の先の交差点を左折し、「市役所通り」を川崎駅に向かいました。
「旧東海道歩き旅」もようやくあと一日を残すところまでやってきました。



























































