やっと旧東海道歩き旅最終日がやってきました。
2020年4月11日草津宿をスタートしてから24日目です。本日2014年9月15日、ほぼ4年半かけて旧東海道を歩き切ることになります。
最終日のスタートは、JR川崎駅です。前回とは異なり快晴になりましたが、9月中旬というのに30度を超える真夏日、先が思いやられます。
川崎駅を後にすると、目の前に京浜急行の高架上を電車が走っていました。
約4分で旧東海道との交差点「砂子交差点」に着きました。「東海道川崎宿」と刻まれた大きな石柱も立っていましたが、どうしたわけかここを左折せず直進してしまいました。旧東海道をこの先の国道15号線と勘違いしたのです。
川崎市役所の前まで来てその間違いに気づき、慌てて引き返しました。
落ち着いて石碑を見ると、隣に松が植えられていました。また交差点の角には「川崎宿と明治維新」についての説明板も立っていました。それによりますと、
川崎宿は200年余り宿場町として栄えましたが、明治維新時、伝馬、飛脚から電信に替わり、明治5年には鉄道も開通し、宿場町としての川崎は終わり、その後近代都市として歩み始めました。
交差点を右折した旧東海道は、落ち着いたオフィス街でした。
「砂子交差点」の次の交差点の左先角に「中の本陣」の説明板が立っていました。
この付近にあった「惣兵衛本陣」は佐藤、田中両本陣の間に位置することから、通称「中の本陣」とも呼ばれていましたが、江戸時代後期に廃業しました。
同じ場所に「旧東海道」と刻まれた石柱と、川崎宿の案内板がありました。
川崎宿には本陣3軒、旅籠約70軒他油屋、小間物屋、酒屋など商家や大工、鍛冶屋、桶屋等の職人や農民も居住し、約350軒の家屋が約1400mの長さに渡り軒を連ね、賑わいを見せていました。
もともと川崎宿の辺りは砂浜の低地で、度々冠水の被害にあいました。そのため旧東海道は砂州の高地上を通るよう計画されており、さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛り土が施されました。
「中の本陣」跡から2、3分歩くと右手に「東海道かわさき宿 交流館」がありました。
「東海道かわさき宿交流館」は、地域の方々の長年の活動を踏まえ、東海道川崎宿の歴史、文化を学び、それを後世に伝え、地域活動・地域交流拠点となることをめざして2013年10月に整備された施設です。1階から3階は、展示・休憩・交流スペースで、4階は、集会・談話スペースになっています。
交流館の向かいの路地の奥に「一行寺」がありましたが、この寺は、江戸時代の初め川崎宿の整備が進むころに開創し、閻魔信仰で大いに賑わいました。また非常の際は、田中本陣の避難所にも当たられたそうです。
交流館の次の交差点角の駐車場の側に「宝暦11年の大火」についての説明板がありました。
宝暦11年(1761)の大火は、川崎宿200年で最大の火災で、小土呂から六郷渡しまで町並みはほぼ全焼しました。再三の大火から立ち直った川崎宿ですが、宝暦以前の歴史文献は見当たらないそうです。
さらに二つ先の交差点左角手前に「田中本陣跡」がありました。
田中本陣は、川崎宿に3軒あった本陣の中でも最も古く、寛永5年(1628)に設置され、その場所が最も江戸に近いことから「下の本陣」とも呼ばれていました。
また宝永元年(1704)42歳で田中本陣を継いだ「田中休愚」は、幕府に働きかけ六郷川の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、渡船賃の収益を宿の財政に充て、宿場の経営を立て直しました。さらに自己の宿役人としての経験や鋭い観察眼によって幕府を輸した「民間省要」を著しました。これにより時の八代将軍吉宗に認められ、幕府に登用され、晩年には代官にもなりました。
「下の本陣」から2分弱、国道409号線との「本町交差点」の左先角に「旧東海道」と刻まれた石柱の横に「稲荷横丁」と刻まれた石柱が立っていました。東海道川崎新宿にあった「馬の水飲み場」から、この先の路地を左に行ったところにある「稲荷社」の前を通る道は「稲荷横丁」と呼ばれていました。
「稲荷社」は戦災で社殿や古文書が消失したため、創建などは不明で、現在の社殿、鳥居は、昭和26年頃に再建されたものです。八代将軍徳川吉宗が紀州から江戸城入りの際、この稲荷社地で休息したと言われています。
石碑の横に「新宿という町」の説明板がありました。
東海道の他の宿場より遅れて造られた宿場なので「新宿」なのか、あるいは、宿を設ける際、新たに出来た町並みをこう呼んだのか定かではありませんが、この辺りが「新宿」でした。
石柱から約2分、多摩川を渡る国道15号線の橋が見えてきました。橋の手前には、
「六郷の渡しと旅籠街」についての説明板がありました。
徳川家康が設けた六郷大橋は洪水で流され、以後200年にわたり渡し船の時代が続きました。舟を降りて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠街で、なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名だったそうです。
橋の下をくぐり、国道15号線の東側の歩道に出て50mほど歩くと、橋のたもとに数基のモニュメントが立っていました。
慶長5年(1600)徳川家康は多摩川に「六郷大橋」を架けました。以来修復や架け直しが行われましたが、貞享5年(1688)7月の大洪水で流された後は、架橋を取りやめ明治に入るまで船渡しとなりました。渡船は当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永6年(1709)3月以降は、川崎宿が請け負うことになり、渡船収入が町の財政を大きく支えました。
大名行列?のレリーフ。
この説明板を見て初めて知りましたが、この辺りが「長十郎梨」発祥の地だそうです。明治中頃、病害に強く、甘い新種が大師阿原村で生まれ、発見者「当間辰次郎」の屋号から「長十郎」と名付けられました。
親橋の上には、渡し船の模型が載せられていました。
多摩川の流れです。
橋の中ほどで、東京都に入りました。
多摩川の東京側の河川敷は野球場などのスポーツ施設になっていました。炎天下でも野球やテニスで多くの人が楽しんでいました。
六郷橋の広い歩道を約5分ほど歩くと歩道は終わり、階段を降り東六郷に入りました。
東六郷に下りてすぐ左折し、国道15号線の六郷橋をくぐり、国道の西側に行くと、
「宮本台緑地」がありました。
旧六郷橋は1925年8月に架けられた長さ446.3m、幅16.4mの橋です。片側1車線の車道に加え、両側に歩道がありました。この時の工事を請け負った業者の一つが、俳優の船越英一郎の曽祖父が営む飯島組でした。1987年に完成した現六郷橋の架け替え工事のために撤去された旧六郷橋の親柱と橋門が公園の入口に残されていました。
公園の向かいには「北野神社(止め天神)」がありましたが、ここが「六郷渡し」の東京側の跡地です。
公園内には丸子の渡し、矢口の渡しなど各所の渡し場についての説明や、六郷橋の生い立ちについての説明がありました。
明治時代の木造の六郷橋の姿です。
再び旧東海道に戻り、日本橋に向かい歩き始めました。
つづく





































