横浜駅で雨宿り兼昼食タイムを取り約2時間、雨も止み当分降りそうもないため、再び歩き旅を続けることにして、京急神奈川駅に戻ってきました。

 

駅前の国道1号線を10mほど歩き、「宮前商店街」の方向に左折しました。

 

左折したところは、商店街の看板は掲げられていますが、あまり商店街らしくない道路でした。

 

    

左折してから約1分左手の路地の奥に「甚行寺」がありました。

 

    

近づいてみると山門の横に「史蹟 フランス公使館跡」と刻まれた石碑が立っていました。先ほど見てきた神奈川宿の案内板にも書いてありましたが、幕末の「神奈川条約締結後」この辺りの寺の多くが領事館等になりました。この寺もそのうちの一つです。

 

傍に立つ説明板によりますと、明暦2年(1656)第1世意圓上人が本山専修寺の第14世尭秀上人を招いて、この寺を草創したと伝えられています。開港当時、本堂は土蔵造りでしたが、改造を加えてフランス公使館に充てられたといわれています。

 

    

「甚行寺」に入る路地の4mほど先の路地の入口に「普門寺」の案内板が立っていました。

 

それによりますと、寺号の「普門」は、須崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことにより、観世音菩薩が多くに人に救いの門を開いているとの意味である「普門」とされたと伝えられています。開港当時は「イギリス士官の宿舎」に充てられました。

 

    

「普門寺」の説明板から1分半ほど歩くと、「普門寺」とゆかりのある「須崎大神」の鳥居があり、参道が奥に続いていました。

 

「須崎大神」は、建久2年(1191)源頼朝が安房国の安房神社の御分霊を祀ったことから始まります。神社前から海に向かう参道が第一京浜(国道15号線)に突き当たる辺りが、かっての船着場でした。境内に大きな檍(あわき)の御神木があり、青木町の地名はそこから来たといわれています。

 

    

「須崎大神」の鳥居の前から約1分で、国道15号線に合流し左折しました。その後

国道15号線を約2分歩き、路地を左折しました。

 

    

左折すると右前方に白い壁が見え、壁に沿って右折すると

 

    

近代的な建物の「宗興寺」がありました。

開港当時、アメリカ人宣教師で医師であった「ヘボン博士」がここに施療所を開きました。ヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の「和英辞書」を完成し、後に明治学院を創設するなど、我が国の教育に尽力した人です。

 

ところで今回我々が歩いたルートは、赤い線で示したルートですが、帰宅してから神奈川宿の案内図をよく見てみると、旧東海道は緑の線のようでした。

 

    

宗興寺」の入口の50mほど先で旧東海道は「滝の川」に突き当たりましたが、その川べりに「滝の橋と本陣跡」と書かれた説明板が立っていました。

 

この絵は説明板に印刷されていた「金川砂子」に描かれた神奈川宿の風景です。「宗興寺」は権現山の麓に描かれていて、すぐ傍に神奈川湊があります。ここにあった「滝の橋」を中心に江戸側に「神奈川本陣」反対側に「青木本陣」が置かれていました。「滝の橋」のすぐ傍には「高札場」が置かれていましたが、この高札場は、現在の地区センターに復元されています。

 

    

案内板のある丁字路を川に沿って右折すると、すぐ国道15号線(第一京浜)に出ましたが、そこには現在の「滝の橋」が架かっていました。

 

現在の「滝の橋」を渡り、すぐ先にある路地に左折しました。

 

    

旧東海道に行く前に、前方に見える京浜急行のガードをくぐり、ガードのすぐ先にある「慶運寺」に行きました。

 

「慶運寺」は、室町時代に芝増上寺第3世音誉聖観によって開かれ、開港当時はフランス領事館に使われました。また「浦島寺」とも呼ばれていて、浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっているそうです。

 

米屋のある角に戻り、

 

    

東に向かい旧東海道を歩き始めて約1分、左手に「成仏寺」がありました。

 

 

この寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺です。開港当初はアメリカ人宣教師たちの宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裏に住んだといいます。ブラウンは英語の教育に尽力し、ヘボンとともに聖書の翻訳もしました。先ほど見てきた「宗興寺」は、「ヘボン博士」が施療所を開いた場所です。

 

「成仏寺」の先の交差点から松並木の続くきれいな通りになりました。

 

    

松並木を1分弱歩くと、復元された「高札場」がありました。もともとは「旧滝の橋」の江戸側にありましたが、その規模は間口約5m、高さ約3.5m、奥行き約1.5mと大きなものでした。

 

    

「高札場」から1、2分歩くと、左手に「金蔵院」がありました。この寺は、京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創建された古刹で、その後徳川家康から十石の朱印地を許されています。

 

    

「金蔵院」から約1分、旧東海道は広い市道に行く手を遮られましたが、ここまで松並木は続いていて、周りの道路とは少し趣の異なった道路でした。

目の前には横断歩道がなく、また交通量の多い幅の広い市道のため、仕方なく50mほど国道15号線の方に戻り、信号のある横断歩道を渡り、左折しました。

 

    

すぐ先の大きなY字路を右折し、「京急東神奈川駅」の手前の、先ほど道路の反対側から見えた9階建てマンション脇の道を進みました。

 

    

マンションの角は丁字路になっていて、ここを右折し、すぐ先の丁字路を今度は左折しました。

 

    

横浜市立神奈川小学校横の路地を2分弱歩くと、またまた丁字路になり、

 

   

左手の角には旧東海道神奈川宿を描いた壁画がありました。

 

その中の一つに「上無川」についての説明が興味深かったです。

「神奈川」の地名は、鎌倉幕府の執権北条時宗の発した文書にも記されている古い地名ですが、その由来の一つに「江戸名所図会」の「上無川」の項に、『神奈川本宿の中の町と西の町の間の道を横切って流れる小溝で、水が少ししか流れておらず、水源が定かでないため上無川という。カミナシガワのミとシを略してカナガワという』と記されています。

「上無川」は、現在の神奈川小学校東脇にあったとされていますが、関東大震災後の復興事業により埋め立てられ、今はその姿を見ることはできません。

 

壁画のある丁字路を右折し国道15号線に出て左折して進みました。

 

    

約4分ほど歩くと、左手「良泉寺」がありました。

開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快しとしないこの寺の住職は、本堂の屋根を剥がし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれています。

 

ところで実際に歩いたルートと、神奈川歴史の道の案内図に描かれている旧東海道のルートが異なっていることに後で気づきました。

 

東神奈川駅近くから神奈川新町付近までのルートですが、赤が実際に歩いたルート、緑が案内図に描かれていたルートです。

 

つづく