旧中橋跡」の案内看板が立つ交差点を左に入ると、正面に「遍照寺」がありますが、その駐車場の建物の壁に「仁王像」のレリーフがありました。お寺に駐車場ビルがあるのも珍しいのですが、仁王像がレリーフになっているのも珍しいと思います。

 

旧東海道に戻り約2分、道路の反対側に古い民家(?)がありました。旧東海道(環状1号線)は、広い歩道と街路樹が整備されたきれいな道路になっていますが、よく今まで当時の姿で残されていたものです。

 

    

さらに1分強歩くと、左手に「香象院」がありました。この寺には保土ヶ谷宿で最大の寺子屋がありましたが、その後明治6年に保土ヶ谷小学校の分校になりました。

 

しかし目につくのは門前に鎮座する2つの鉄釜です。ともとこの鉄釜は本堂前に置かれた「天水桶」だったものを、本堂の再建の際門前に持ち出され、事故防止の為に大きな蓋を付けたそうです。

 

「香象院」から6分ほど相鉄本線の高架が見えてきて、

 

     

「天王町駅」前の公園の中にある案内板に従えば、旧東海道は高架下の「天王町駅」の前を通るようでした。

 

公園内にある説明板によりますと、

旧東海道に架けられていた帷子(かたびら)橋は、現在の「帷子橋」の位置ではなく、昭和31年(1956)に帷子川の河川改修工事により、帷子川川筋を相模線天王町駅南側から北側に付け替え、帷子橋も位置を移し、コンクリート橋になりました。かつての帷子橋の跡地は、ここ現在の天王町駅前公園の一部となっていて、

 

公園内にかっての「帷子橋」のモニュメントがありました。

 

また安藤広重の「東海道五十三次之内 保土ヶ谷」の風景はに帷子橋が描かれています。

 

「天王町駅」を通り過ぎると商店街があり、短い商店街を抜けると帷子川に架かる現在の「帷子橋」がありました。

 

    

「帷子橋」を渡り1分強、「橘樹神社」がありました。「橘樹神社」は古くに立花杜と呼ばれ、祭神は日本武尊、弟橘媛の二神です。

 

    

「橘樹神社」から2、3分、駐車場の入口横に「江戸方見附跡」の説明板がありました。

ここ江戸方見附から上方見附までは、家屋敷が建ち並び「宿内」と呼ばれ、両見附間ぼ距離は19町(約2km)でした。

 

「江戸方見附跡」の先100m弱の「松原商店街入口交差点」で国道16号線を横断すると、突然賑やかになりました。100数十メートルの商店街ですが、1か所に八百屋が4軒ほど集中し、それぞれが競争しているのか価格は非常に安かったです。思わず買いたくなるほどでした。

 

    

国道16号線から300mほど歩くと「追分」と書かれた標柱が立っていました。ここ芝生(しぼう)の追分は東海道と「八王子道」が分かれるところです。「八王子道」は、ここから帷子川に沿って伸び、町田、八王子へと続く道で、安政6年(1859)の横浜開港以後は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれました。

 

    

「芝生追分」から5、6分歩くと、左手に赤い標柱が見えました。

 

そこには芝生村の歴史が書かれていました。

横浜港開港以来、ここ芝生村(しぼうむら)現浅間町には移住者が多く集まりました。明治初期の芝生村の移住者明細を見ると、食麩、升酒小売、水茶屋、舟乗、大工、紺屋、提灯張、木具、髪結、湯屋、看板書などと職人が多く住んでいました。開港当時の横浜の建設に芝生村の各種の職人が果たした役割は大きかったものと推測されています。

 

    

「芝生村」の標柱から約3分、左手に「浅間神社」の鳥居と社殿へと続く石段があり、

 

    

鳥居の右角に「浅間神社と富士の人穴」と書かれた説明文と江戸時代の浅間神社の様子を描いた絵図がありました。それによりますと

浅間神社の創建は承歴4年(1080)、富士浅間神社の分霊を祭ったものと伝えられています。本殿のある丘は「袖すり山」と呼ばれ、昔は山の下がすぐ波打ち際であったといいます。境内西側の崖(東海道からは見えません)には富士山に通じていると伝えられる「富士の人穴」と呼ばれる古代の「横穴式墓」があり、東海道を往還する人々が見物する名所となっていました。しかし今は、周辺の開発によって見ることはできなくなってしまいました。

 

    

絵図を見ると、20段ほどの石段を上り、左手(西方)に向かって山道を登っているようです。

 

石段右横に「義勇奉公」と刻まれた大きな石碑が立っていました。この石碑は浅間町地区における日露戦争の戦没者3名と凱旋者31名を顕彰するため、明治40年6月1日に有志によって建立されたもので、「義勇奉公」の篆額は下乃木大将によるものです。

 

「浅間神社」の鳥居から約2分で、県道13号線にぶつかりました。

 

    

県道13号線を左折してすぐの横断歩道を渡り、またすぐ左折し20mほど先を今度は右折して進みました。

 

県道13号線を後にしてから約7分、「首都高速神奈川2号三沢線」のガードを超えると、すぐにY字路になりました。右折すると環状1号線に出ますが、旧東海道は直進しました。

 

    

Y字路のすぐ先左手のセブンイレブンの角に立つ「歴史の道」案内図によれば、この先に「上台橋」があるようです。

 

セブンイレブンの前から4、5分歩くと、その「上台橋」が見えてきました。

 

「上台橋」の左手前は小さなポケットパークになっていて、道標と案内板が立っていました。

 

説明図には、ここ「上台橋」から京急神奈川駅を通り京急神奈川新町駅までの、旧東海道のルートが、現在の道路体系の上に書かれていました。当時とは道路体系が変わっているためか、かなり複雑なルートになっていました。帰った後から気付いたことですが、実際に歩いたルートは少し間違ったルートでした。

 

かって「上台橋」あたりは、潮騒の聞こえる海沿いの道でした。切通の道ができるとともに昭和5年にここに陸橋が造られました。

ここ神奈川が一躍有名になったのは、安政元年(1854)の「神奈川条約締結」の舞台となってからです。その4年後に結ばれた「日米修好通商条約」では神奈川が開港場と決められ、近くにある多くの寺が諸外国の領事館などに充てられました。

 

「上台橋」の下は、川ではなく切通で作られた道路でした。

 

「上台橋」を過ぎたあたりから、ぽつりぽつりと雨が落ち始め、道路も濡れてきました。

 

    

「上台橋」から約4分、左手に「神奈川台の関門跡」がありました。

開港後外国人が何人も殺傷され、各国の領事たちは幕府を激しく非難しました。そのため幕府は、安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化しました。この時神奈川宿の東西にも関門が造られ、そのうちの西側の関門が、「神奈川台の関門」です。実際の位置は説明板がある場所よりやや西寄りでした。

 

説明板には、当時の関門の写真がプリントされていました。

 

説明板の傍に建つ石碑には、「神奈川台関門跡 袖ヶ浦見晴所」と刻まれていましたが、ここから千葉の袖ヶ浦が見通せたということでしょうか。

 

    

本格的に降り出した雨の中、「関門跡」から2分弱歩くと、左手の石垣の前に「神奈川の台と茶屋」についての説明板があり、その30mほど右手先に木造の古い料亭風の建物がありました。

この辺りはかって「神奈川の台」と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝の地で茶店が軒を並べていました。

 

    

江戸時代の神奈川宿の様子を描いた「金川砂子」のなかの「臺町茶屋之景」に描かれている「櫻屋」は、右前方にある料亭田中屋の辺りにあったといわれています。

 

「田中屋」は、神奈川宿が賑わった当時から続く唯一の料亭で、文久3年(1863)の創業です。田中屋の前身の旅籠「さくらや」は東海道53次にも描かれた由緒正しい名前です。

坂本龍馬の妻「おりょう」は明治の初期この田中屋で働いていました。英語が話せ、月琴も弾くことができる「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていました。

 

    

「田中屋」から1分少々歩くと、「大綱金刀比羅神社」の赤い鳥居の横に神社と「一里塚」についての説明板がありました。

 

「大綱金刀比羅神社」は、平安末期の創立で、もとは「飯綱社」と呼ばれ、今の境内後方の山上にありました。その後現在の地に移り、さらに琴平社を合祀して「大綱金刀比羅神社」となりました。

また神社前の街道両脇には、日本橋より7つ目の一里塚「神奈川一里塚」が築かれ、土盛りの上に榎が植えられていました。

 

神社のすぐ先で、旧東海道は環状1号線にぶつかり、ここを左折し

 

すぐ右折し環状1号線を横断しました。

 

環状1号線を横断しないでそのまま直進し、目の前の坂を上ると、神奈川条約に基づきアメリカ領事館が置かれていた「本覺寺」があります。当時住職が地蔵菩薩のお告げによって作ったとされる万能薬「黒薬」といわれるものが明治初年まで政府の官許の下に製造されており、神奈川宿の名物になっていたそうです。

 

環状1号線を横断すると、国道1号線になり、東海道本線の上の「青木橋」を渡りました。振り返ると「本覺寺」が見えました。

 

東海道本線を超えると、左手に「京急神奈川駅」がありました。雨もひどくなり、時刻も11時25分。昼食と雨宿りを兼ね、近くの横浜駅に行くことにしました。場合によっては、本日の行程はここまでと諦めるしかありません。

 

つづく