権太坂を下り丁字路を左折してから約1分、今井川に架かる改修中の橋を渡るとすぐに「元町ガード交差点」の丁字路に着き、

 

    

交差点角の案内図に従い、右折しました。

 

    

交差点から約3分、第3コープマンションの敷地角の植え込みの中に「旧元町橋跡」と書かれた標柱がありました。説明によれば、明治時代の東海道線鉄道工事以前の今井川はこの場所で街道を横切っていたそうです。また以前の橋は、「東海道分間延絵図」にも描かれ、ここから東側を「元保土ケ谷」西側を「元保土ケ谷橋向」となっていました。

 

標柱から5分ほど歩くと旧東海道は緩やかに右カーブし、国道1号線に合流しました。

 

    

日本橋方面はここを左折ですが、交差点を横断し今井川を渡ったところで左折し、今井川沿いの道を歩きました。

 

    

1分弱で道路は歩行者用の遊歩道となり、さらに1、2分歩くと右手に、文化7年(1810)建立の「湯殿山供養塔」がありました。

 

保土ケ谷周辺では、古くから羽黒修験の勢力が及んでいたようで、特に江戸時代後期にはその活発な布教活動で、村々に講が結ばれ、三山講として出羽三山への登拝が行われていたそうです。湯殿山は出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)の一つで、湯殿山登拝の記念として建てられた供養塔です。

 

    

供養塔のすぐ先にある「仙人橋」を渡ると、右前に江戸から数えて8番目の「保土ケ谷一里塚跡」と「上方見附跡」がありました。この辺りから保土ヶ谷宿になります。

保土ケ谷宿の上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば外川神社の前にあったとされています。(外川神社は、湯殿山供養塔の隣にあります)

 

隣に「保土ケ谷宿松並木」に関する説明板がありました。

かってこの辺りから境木まで3km余り松並木が続いていて、昭和初期までは比較的良好な状態で残されていましたが、時代とともに減り続き、旧東海道の権太坂付近を最後に現在では見られなくなりました。

平成19年2月、国道1号線拡幅工事と今井川の河川改修工事により生み出された公共空間に、松並木と一里塚の復元工事(縮小版)が行われ、今井川に沿った約300mの区間に松などを植樹しました。

 

    

一里塚脇の交差点を渡り、約1分ガードレール脇に「茶屋本陣跡」と書かれた標柱が立っていました。元治元年(1864)の茶屋本陣の規模は、建坪63坪(約208㎡)、間口10間半(約19.1m)、奥行き6間(約10.9m)門構え付きの建物でした。

茶屋本陣とは本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋の事です。

 

茶屋本陣跡の約20mほど先、道路の反対側に「保土ケ谷宿」と書かれた昔風の建物のお休み処がありました。

 

    

お休み処から1分ほど先に、緑色の屋根(銅板葺きか?)に格子窓の付いた当時の面影がよく残された建物がありました。建物前の標柱によると、この建物は旅籠屋「本金子屋」の建物で、建坪79坪(約261㎡)、間口7間(約12.7m)、奥行き11間半(約20.9m)、客室13でした。現在の建物は明治2年に建てられたもので、子孫の方が大切に保存されているそうです。

 

    

「本金子屋跡」の50mほど先の消防署の前に「脇本陣水屋跡」がありました。

天保年間の水屋の規模は、建坪128坪(約423㎡)、間口8間(約14.5m)、奥行き16間(約29m)、客室数14で玄関門構え付きでした。

    

さらに40mほど先のマンション前の電柱脇に「脇本陣藤屋跡」の標柱がありました。

天保年間の「藤屋」の規模は、建坪119坪(約393㎡)、間口6間半(約11.8m)、奥行き18間(約32.7m)、客室14で玄関付きでした。

 

    

「藤屋」の先100mの弱の所右側に「保土谷宿苅部本陣跡」がありました。「苅部本陣」は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々務めていました。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土谷宿で最も有力な家でした。

 

本陣跡の前を通った時はよく分かりませんでしたが、横断歩道を渡った所から見ると本陣跡の姿がよく分かりました。

 

    

旧東海道(国道1号線)は苅部本陣の少し先の「保土ケ谷橋交差点」で左折し北上しますが、旧東海道は「苅部本陣跡」の前で左折し北上しました。

 

   

 

 

横断歩道を渡りそのまま直進し北上する前に京側に少し戻ると、2軒目のマンション前のガードレール脇に「脇本陣大金子屋跡」の標柱が立っていました。

天保年間の「大金子屋」の規模は、建坪119坪(約393㎡)、間口7間(約12.7m)、奥行き17間(約30.9m)、客室14の玄関付きでした。

 

保土谷宿には苅部本陣の他、藤屋、水屋、大金子の3軒の脇本陣がありました。茶屋本陣から苅部本陣までの約400mが保土谷宿の中心だったようです。

 

左折し1分強歩くと、東海道本線の踏切がありましたが、この辺りはまだ立体交差にはなっていませんでした。

 

    

踏切を渡るとほどなく十字路がありますが、右手前のビルの壁際に4基の石碑が立っていました。これはいずれも道標で、右から「円海山之道」天明3年(1783)建立で、左側に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と記されています。

次は「かなさわ、かまくら道」天和2年(1682)建立で、左側には「ぐめうし道」と記されています。「ぐめうし」とは「弘明寺」のことでしょうか。

その次は「杉田道」文化11年(1814)建立で、正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 基爪」と刻まれています。句碑を兼ねた道標は珍しいです。

一番左は「富岡山芋大明神社の道」弘化2年(1845)建立で、芋明神は、富岡の長昌寺で、ほうそうの守り神として信仰を集めていました。

 

    

道標の横に「程ヶ谷番所」と書かれた看板が掲げられていましたが、かってここに番所があった跡地ではなく、休憩所兼資料館として保土ケ谷西口商店街の方々が作られたそうです。

 

交差点の反対側(西側)には、「金沢横丁」と書かれた標柱が立っていました。

この地は金沢・浦賀往還への出入り口にあたり、通称「金沢横丁」と呼ばれていました。金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、道標が4基建てられました。

 

    

「金沢横丁」から1、2分電柱の横に「高札場跡」の標柱が立っていました。宝暦13年(1763)に建てられた高札は、幅2間半(約4.5m)、高さ1丈(約3m)の規模でした。

 

「高札場跡」の50mほど先右手に「問屋場跡」がありました。

 

    

さらに50mほど先左手に「助郷会所跡」の標柱がありました。各助郷村の代表はここに出勤し、問屋場の指示に対応するとともに、村が手配した人馬が不公平な割り当てにならないように監視する場でもありました。

 

「助郷会所跡」から1分強で、右から来る環状1号線に合流し、そのまま直進しました。

 

    

環状1号線に合流してから約2分、「岩間町交番交差点」の左先角に「旧中橋跡」の説明看板がありました。

かって今井川はここで街道を横切っており「中橋」が架けられていました。その川筋は、慶安元年(1648)保土ケ谷宿が建設された際に人工的に造られたものでした。しかしその構造上大雨に度に浸水被害を受けたため、幕末の嘉永5年(1852)になってやっと現在の川筋に改修されました。

ちなみに改修工事で発生した大量の残土の処分に困った名主苅部清兵衛は、当時建設中だった品川台場の埋め立て用として、船で約18000㎥余りを運びました。

 

先ほどの「元町橋」もかって旧東海道を横切っていましたが、江戸時代の今井川はかなり蛇行していたようです。

 

つづく