「海雲寺」から1分弱歩くと、左手にある「品川寺(ほんせんじ)」の山門の前に高さ2mほどの地蔵様の座像がありました。「品川寺」は品川区内で一番古い寺で、この地蔵は、「江戸六地蔵」の一つです。境内の「洋行帰りの鐘」は、幕末パリ万国博に出品されたあと行方不明になっていましたが、大正8年、文部省学芸部長の石丸雄三が、鐘がスイス・ジュネーブ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを発見し、多くの人々の尽力により昭和5年品川寺に変換されました。品川寺は、江戸六地蔵の一つであると同時に、地域にある東海七福神の一つともなっている
【江戸六地蔵】
東海道:品川寺、奥州街道:東禅寺、甲州街道:太宗寺、
中山道:真性寺、水戸街道:霊巌寺、千葉街道:永代寺
【東海七福神】
大黒天:品川神社、布袋:養願寺、寿老人:一心寺、恵比須:荏原神社、
毘沙門天:品川寺、福禄寿:天祖諏訪神社、弁財天:磐井神社
「品川寺」の斜め前に高さ3mほどの松の木が植えられていました。立て看板には「保土ヶ谷宿の街道松」と書かれていましたが、この松は、東海道が取り持つ縁で4番目の宿場町保土ケ谷宿の「保土ヶ谷400倶楽部」から寄贈されたものです。品川宿にはこの他にも、東海道の各宿場町から同様の趣旨で寄贈された松が植えられています。
その隣は、茶屋「釜屋」があった場所です。
南品川には、旅人が休息する「建場茶屋」が数多くあり、江戸に最も近い品川宿は、江戸を発つ旅人たちを見送る為の宴会の場であったり、また参勤で江戸に入る大名が、旅装束から江戸屋敷に入る支度を整える場でもありました。なかでも品川寺門前の「釜屋」は海を臨む風光明媚な茶屋であり、諸大名にも愛され、料理を供するようにもなりました。
新撰組副長土方歳三が、新入隊士や故郷の支援者たち計31人で休息した記録が残されたり、慶応4年鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に帰った新撰組の「江戸屯所」にもなりました。
「保土ヶ谷宿の街道松」の40m程先に「関宿の街道松」がありました。
「関宿の街道松」から1分ほど先の「都道421号線」との「東海道南品川交差点」の角には、「一三番 青物横丁」と書かれた道標が立っていました。先ほどの「花海道入口」の道標が二十番でしたから、日本橋に近づくと番号が小さくなっているようです。
「東海道南品川交差点」から1分弱歩くと左手奥に諏訪神社がありました。
さらに1分強歩くと左手に「天妙国寺」がありました。「天妙国寺(てんみょうこくじ)」は、日蓮の直弟子、天目上人が開祖と伝えられ、将軍家の保護を受け、文化財も多い。また、桃中軒雲右衛門、お祭り佐七、伊藤一刀斎、斬られ与三郎(芳村伊三郎)お富など 有名人のお墓も多いお寺です。
また朱塗りの山門は、「しながわ百景」にも指定されています。
「天妙国寺」の南隣にある「港区立城南小学校」の校舎ですが、小学校らしくない斬新なデザインでした。
「天妙国寺」の向かい側には、「袋井宿の街道松」もありました。
「天妙国寺」の斜め前にあるマンションの場所が、かって「宮川家旧宅」が立っていた場所です。
宮川家は、江戸時代中l期より、玄米を精米して小売する「春米屋(はるこめや)」を営み、江戸城内の「米搗(こめつき)」も輪番で務めていました。明治に入ってからはさらに事業を拡げ、昭和末期まで精米業を続けていました。これらの事柄を記録した「宮川家文書」は、火事で古文書がほとんど残っていない品川宿における貴重な資料として、品川区の「有形文化財」に指定され、現在は品川歴史館に収蔵されています。
「宮川家旧宅」から約1分右手の路地を少し入ると
左手に石垣がありました。入ってきた路地に面した石垣は普通の石垣でしたが、左に入った路地に面した石垣は、「東海道品川宿石積護岸」と呼ばれるもので、
東海道を波濤から守るため、19世紀前半以前に伊豆石で構築され、近代以降も房衆石や大谷石で修復をくり返し使用されてきました。かって高輪から大森にかけて東海道護岸線上に存在しましたが、その後の開発により多くは消失し、江戸時代に構築された石積みが現存しているのはここだけです。
旧東海道に戻り、斜め前の路地を左に入ると「常光寺」がありましたが、その山門前に「城南小学校創立之地」と刻まれた石碑が立っていました。現在の小委学校は、「常光寺」の南隣にあります。
「常光寺」から1分弱歩くと左手に児童公園がありましたが、その入口にも街道松がありました。ここの街道松は「三島宿の街道松」です。
さらに1分弱歩くと、交差点右手手前のビルの壁に「品川宿問屋場跡・貫目改所跡地」の表示がありました。
問屋場は、継立業務等を行う宿場の役所で後に同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所が設けられました。江戸時代(1866年)の暴動「江戸の打ちこわし」はここから端を発し江戸中を巻き込んだといわれています。品川宿には南北2か所に問屋場に設けられましたが、文政六年の大火で北品川宿の問屋場・貫目改所が焼失して以来、ここ南品川宿の一カ所となりました。
問屋場のある交差点から1分強歩くと、「街道松の広場」がありましたが、入り口にはひときわ立派な街道松「浜松宿の街道松」が立っていました。
この広場は、旧東海道品川宿周辺地区まちづくり事業により「歴史と文化を活かした憩いの広場」として整備されたまちづくりのための広場です。
「街道松の広場」から1分強歩くと、「目黒川」に架かる「品川橋」に着きました。品川宿は目黒川の北と南で、「北品川と南品川」に分かれます。
橋の手前の交差点左手前角にレトロな建物がありましたが、かっての「品川警察署品川橋巡査派出所跡」です。現在は観光案内所になっていました。
令和5年8月7日付けで、国の登録有形文化財(建造物)となったこの建物は、品川警察署品川橋巡査派出所として1929(昭和4)年に建てられ、地域住民から寄附されたものです。この地が旧東海道の交通要所で往来がさかんであったことから、地域の安全のため地域住民から交番設置が求められたのだと推測されます。
木造の建物ながら壁を鉄網コンクリートとすることで耐震化と不燃化を図っており、外壁のモルタルには目地を切り擬石風に仕上げています。建物側面には縦長の上下窓を設けることで、往来する人車等を視認しやすくするなど、交番としての機能性が窺える一方、交差点に面して隅切りした入口には庇付欠円アーチが設けられるなど、竣工当時流行したアール・デコの意匠が偲ばれます。
こうした交番建物は都内での残存事例が少なく、関東大震災後に耐火構造で建てた戦前の交番遺構として、また昭和初期の品川宿の景観を現在に伝えるものとして貴重な建物です。巡査派出所としての役目を終えたあと、令和2年に品川区が東京都から取得し、令和4年に改修を施したうえで、現在は「南品川櫻河岸まちなか観光案内所」として活用されています。
品川橋は、江戸から京に上る時最初に渡る本格的な橋で、橋の上は珍しく公園風になっていました。
「品川橋」は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる「目黒川」に架けられ、江戸時代には「境橋」と呼ばれていました。最初は木の橋でしたが、その後は石橋、コンクリート橋になり、現在は鋼橋へと変遷してきました。
品川橋を渡ると「北品川宿」です。
つづく






















