大森スポーツセンター前の石碑から約1分で、旧東海道は、再び国道15号線に合流しました。
国道15号線に合流してから5、6分、時刻は11時40分頃です。「大森北交差点」角にロイヤルホストがありましたので、少し早いですが昼食にしました。
ロイヤルホストのすぐ先に「磐井神社」がありました。
「延喜式神名帳」に記載されている「式内社」と呼ばれる古社で、徳川家の将軍も参詣したことがしるされている。
神社の前の歩道内に「磐井の井戸」と呼ばれる井戸がありました。
この井戸は「磐井」と呼ばれる古井戸で、社名の由来になっています。東海道を往来する人の飲み水として利用され、霊水又は薬水と称された古来有名な井戸です。土地の人々は、「この井戸水を飲むと、心正しき者が飲めば清水、心卑しき者が飲めば塩水になる」と言い伝えています。
「磐井神社」から10分弱歩くと首都高速1号線の鈴ヶ森ランプの高架下で、旧東海道は国道15号線から右に分かれました。この辺りから大田区から品川区になります。
旧道の入口に「鈴ヶ森刑場遺跡」がありました。ちょっとしたポケットパークのようになっている遺跡です。
「鈴ヶ森刑場」は、慶安4年(1651)に開設され、規模は元禄8年(1695)実施の検地では間口40間、奥行き9間でしたが、国道15号線の拡幅工事等により旧態は留めていません。隣にある大軽寺は、処刑者の供養のために建てられた寺で、髭題目を刻んだ石碑は、池上本門寺の25世貫主日紀顗の筆によると伝えられています。
刑場跡地内には、受刑者のための仏像や石碑が数多くありましたが、
震災や大火の被災者のための供養塔や水難者のための供養塔もありました。
磔台と火炙台が並んで残されていました。
「磔台」の跡です。罪人はこの台の上に立てられた角柱の上部に縛り付けられ、刺殺されました。
「火炙台」の跡です。「八百屋お七」を始め火炙りの受刑者は、この石の上で生きたまま焼き殺されました。真ん中の穴に鉄柱を立て、足下に薪を積み、焼き殺しました。
刑場横にある受刑者を弔うために建てられた「大経寺」です。
品川区に入りました。
「鈴ヶ森刑場跡」から約8分、「立合川」に架かる「浜川橋」に着きました。橋の手前左手に、西暦1100年から1190年頃創建の「天祖・諏訪神社」がありましたが、縁日のようで屋台が出ていました。「諏訪神社」は、浜川町と元芝の鎮守の御社・氏神様と仰ぎ親しまれている神社で、漁師町の気風が今に残る神社です。
穏やかな立合川の流れです。
立合川は、目黒区と品川区を流れ、東京湾の勝島運河に流れ出る総延長7.4Kmの二級河川ですが、名前の由来に定説はなく、
・その昔、川を挟んで小競り合いがあったことから「太刀会川」とした。
・鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を、その親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)場所であることから「立会川」となった。
・中延の滝間(たきあい)という地を流れていたので滝間川(たきあいがわ)と呼ばれ、それが現在の立会川に変わった。
など、諸説あります。
立会川を渡り一つ目の路地を左折すると賑やかな商店街になっていて、70mほど行くと右手に「坂本龍馬」のブロンズ像が立っていました。
なぜここに坂本龍馬と思いましたが、説明板によりますと、
ペリーが初めて来航した嘉永6年(1853)、19歳の坂本龍馬は江戸で剣術修行中でした。土佐藩は立合川河口付近にあった下屋敷警備のため、江戸詰めの武士を動員しましたが、坂本龍馬もその中に加わりました。
この像は、平成22年に東京京浜ロータリークラブが関係者と密に語らい、20歳の龍馬像として建立したものです。この像の中には、高知県桂浜の龍馬像修復の際出た金属片が入っているそうです。
旧東海道に戻り50mほど先にある路地を右折し、70mほど行くと、
左手に新浜川公園がありましたが、その中に大砲のレプリカがありました。
ここはかって土佐藩の下屋敷があった場所で、嘉永7年(1854)1月ペリー艦隊が再来航した際、急遽土佐藩が造ったのが「浜川砲台」でした。
備え付けられたのは、
六貫目ホイッスル砲(ここにある復元されたもの) 一門
一貫目ホイッスル砲 二門
鉄製五貫目砲 五門
でした。
実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあったようです。
公園に沿って北に進み、次の路地を左折して旧東海道に戻りましたが、そこに「二十番 花海道入口」と刻まれた道標が立っていました。
「しながわ花海道」は、勝島運河の防潮堤に「花畑を作ろう」と立会川商店街と鮫洲商店街が中心となって2002年から始められた緑化プロジェクトです。約2kmに及ぶ防潮堤に春は菜の花、夏はひまわり、秋はコスモスなど、季節毎に花が楽しめるそうです。
先ほど見てきた「浜川公園」の東側にあるのが勝島運河で、「浜川公園」は「しながわ花海道」の南端になるようです。
花海道の道標から約4分、左手奥に「嶺雲寺」がありましたが、旧東海道に面した駐車場には、お祭りの屋台がありました。多分先ほどの「天祖・諏訪神社」のお祭りの屋台でしょう。
さらに4分ほど歩くと、左手にローソンがある交差点角の「十八番 花海道入口」の道標が立っていました。ここが北側の入口のようです。
「十八番 花海道入口」の道標から約6分、都道420号線との交差点角の街灯(?)に「東海道 龍馬がゆく」との表示がありました。やはりこの辺り坂本龍馬との縁を大事にしているようです。
交差点を渡った先の街灯には「東海道品川宿」の文字が見えました。この辺りから「品川宿」になるのでしょうか。
都道420号線との交差点から一つ目の交差点を左に入ったところに石碑が2基立っていました。
右の石碑には「鮫洲正観世音菩薩道場」台座には「海晏寺(かいあんじ)」と、左の石碑には「贈 太政大臣岩倉公御墓参拝道」台座には同じく「海晏寺」と刻まれていました。この路地の奥、国道15号線を越えたところに「海晏寺」がありますが、ここに「岩倉具視」の墓があります。この路地はかっての参道だったのでしょうか。
都道420号線との交差点を越えた辺りから街灯のデザインが少し変わり、「青物横丁商店街」と書かれていました。
2基の石碑から2分弱、「京急青物横丁駅」に向かう路地のすぐ先に「海雲寺」がありますが、そこに「えんの行者像」があるので見に行ってきました。
その像は境内に入った左手に「(役)えんの行者像」がありました。
役行者は、奈良時代(710年〜784年)に活躍した僧侶で、修験道の開祖としても知られています。彼の生涯は634年から701年頃とされていますが、正確な年代には諸説あります。役行者は、山岳修行や神仏習合の宗教運動に深く関わり、日本の宗教文化において重要な位置を占めています。役行者についての有名な伝説の一つに、役行者が山中で巨大な鬼を退治し、その鬼を自らの護り神たという話があります。また、彼は空を飛ぶ能力を持ち、山岳間を瞬時に移動できたとも言われています。これらの伝説は、役行者の高い修行の成果や、自然界との調和を大切にする姿勢の表れとされています。
また境内にある「千躰荒神堂」に架かる「荒神王」と書かれた扁額は、品川区の有形民俗文化財に指定されています。
「千躰荒神王」は火と水の神として、また台所の神としても有名です。ここに掲げられている扁額は信徒の奉納によるもので、全部で27面あるそうです。文字額及び雌雄二鶏図が多く、文久元年(1861)作の雌雄二鶏図は、ガラスの上に彩色された貴重な資料です。
境内に「平蔵地蔵」と呼ばれるお地蔵さまがありましたが、ここに祀られている「平蔵」は鈴ヶ森刑場の番人で、2人の仲間と交代で乞食をしてましたが、1860年頃の或る日大金が入った財布を拾い、正直に持ち主の仙台藩士に届けたところ、仲間の乞食に仲間外れにされ凍死したため、藩士が平蔵を悼んで建てたものです。当初青物横丁にありましたが、1900年10月京浜急行線建設に伴い当寺に移されました。
つづく






































