「品川橋」を渡り50mほど行くと、左手に「袋井宿の兄弟松」と呼ばれる街道松が立っていました。品川宿にはこのような街道松が街道沿いの各所に植えられていますが、袋井宿からは6本の松が贈られています。
「袋井宿の兄弟松」の斜め前に「品川宿交流館」がありました。この建物は、品川区が所有し、「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が管理運営する施設です。1階はお休み処、2階は展示室、3、4階はまちづくり活動の拠点として活用されています。お茶でも飲みたかったのですが、飲食施設は無いようなので先を急ぎました。
「品川宿交流館」から約1分で、国道357号線(環状6号:山手通り)との「東海道北品川交差点」に着きました。
交差点を渡り50mほど行くと、右手に街道松とともに看板も見えました。
ここに植えられているのは「土山宿の街道松」ですが、また「品川宿本陣跡」でもありました。品川宿には初め南品川宿と北品川宿に1軒ずつありましたが、江戸中期にはここ北品川宿の本陣のみとなりました。
大名などが宿泊すると、本陣には大名の名を記した「関札」を立て、紋の入った幕をめぐらしました。
また、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)にもなりました。歌川芳盛作「遷都鳳輦品川通御之図」には、本陣に止宿された翌朝、品川宿から高輪大木戸へと差し掛かる天皇一行の様子が描かれています。
本陣跡の一部は「品川区立聖跡公園」となっています。
「本陣跡」の50mほど先、右の路地の入口に立て看板が見えました。街道松かと思いましたがどうも松には見えません。近づいてみると「竹屋横丁」と書かれていました。
「竹屋横丁」は、東海道から目黒川本流(現・なぎさ通り(八ッ山通り))に至る横で、1800年頃の品川宿を描いた『東海道分間延絵図』にも記載があります。
北品川宿には、このような横丁名が書かれた看板や石碑が各所にありました。
さらに1分弱歩くと左手の路地の入口に「虚空蔵横丁 本宿」と刻まれた道標が立っていました。
北品川本宿から西方の養願寺への横丁を通称「虚空蔵横丁」といいます。かっては阿弥陀如来が本尊でしたが、境内にある「虚空蔵堂」が「品川の虚空蔵さま」として親しまれ、現在は虚空蔵菩薩が本尊です。
道標の向かいにある「一心寺」です。「一心寺」は、安政2年(1855)創建の真言宗智山派のお寺です。ご本尊は成田山の分身である不動明王で古くから延命と商売繁盛の寺として信仰を集めています。
「一心寺」から約1分左手の路地の奥に「法善寺」がありますが、
その入口に「品川小学校発祥之地」と刻まれた石碑が立っていました。現在品川小学校は無いようです。
旧東海道に戻り歩き始めてすぐ、右手に東海道から八ッ山通りに抜ける帯状の「品海公園」がありましたが、その入口に街道松が植えられていました。これは「品川宿の街道松」で「品海公園」の改修工事竣工を記念して、品川宿で5本目の「街道松」として、品川宿の方々から寄贈されたものです。
また公園の入り口にある花壇に使われている石材は、品海公園北隣の民家の基礎として使われていたもので、かって街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねた石垣として組まれていたものです。石材は千葉鋸山産の凝灰岩(房総石)で、幕末から明治にかけて造られたものと考えられています。
ここには「品川宿」についても説明板や道標もありました。
ここから日本橋まで2里(8km)の所まで来ましたが、一里塚についての記載はありません。
「品川宿」は、日本橋を出て最初の宿場町であり、旅人は、「品川宿」を経由して西を目指し、また家路についたことから「東海道の玄関口」として栄えました。宿内の家屋は1600軒、人口7000人の規模でした。今でも品川宿周辺は、江戸時代と同じ道幅を保ち、かっての宿場町としての活気が息づいています。
「品海公園」の入り口から一つ目の路地(黒門横丁)の入口に「袋井宿の街道松 三)がありました。袋井宿からは6本の松が寄贈されていますが、この松はそのうちの一本です。
通常は赤い消火器箱も、旧東海道のイメージを保つためでしょうか、茶色く塗られ、松も描かれていました。
「黒門横丁」の現在の姿です。
寛政12年(1800)の『東海寺絵図』によると、東海道から西に東海寺に入る通りを「東海寺大門通り」といました。寺の入口には黒塗りの大門があったため、この横町を「黒門横町」と呼んでいたそうです。現在その東海寺は黒門横丁の奥にはなく、南の目黒川のそばにあります。
「東海寺」は北品川にあった大寺で、万松山と号し、寛永15年(1638)に将軍家光の信任をうけていた沢庵のために、家光が建立した寺です。臨済宗に属し京都大徳寺の末寺として朱印寺領500石を領し、歴代の将軍や諸大名の帰依をうけていました。明治維新になって当寺は品川県の県庁の所在地に指定されて、その堂宇がこわされたほか、将軍や諸大名の庇護を失って衰退し、広大な敷地は他の用地に転じて、現在その中央に環状六号線が通じています。現在の東海寺は、もとの塔頭玄性院が引き継いだものです。
「黒門横丁」の斜め前の路地は「台場横丁」と呼ばれています。
ペリー来航を受け、江戸防備のため品川沖に台場(砲台)を築造しましたが、計画した11基のうち5基しか完成せず、急遽陸続きの御殿山下御台場(現:台場小学校)を築造しました。「台場横丁」は東海道から御台場に下って行く横丁です。
「台場横丁」から約3分、右手のビルの前に「袋宿の街道松 二」がありました。これは先ほどの「袋井宿の街道松 三」の兄弟松と呼ばれている松です。この松が確認できた最北の街道松でした。
「袋宿の街道松 二」から1分強歩くと、「三 歩行新宿 土蔵相模跡」と刻まれた道標が立っていました。
「歩行新宿」(かちしんじゅく)は、品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が享保7年(1722)に宿場としてみとめられたもので、宿場が本来負担する伝馬と歩行人足(かちにんそく)のうち、歩行人足だけを負担したために「歩行新宿」=「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味で名付けられたものです。品川宿を構成する一宿であることから、「品川歩行新宿」と書く場合が多いようです。
旧東海道に面した飯売旅籠屋「相模屋」は、外装が海鼠(なまこ)塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれていました。「土蔵相模」は品川でも有数の規模を誇った妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀を行った場所として知られています。また 文久2年(1862)の長州藩士による英国公使館焼き討ち事件の際は、ここ「土蔵相模」から出発しました。安政7年(1860)には桜田門外の変で襲撃組主体をなした水戸浪士17名がここで訣別の宴を催しました。
「土蔵相模」の道標から50mほど先右手に「問答河岸跡」と刻まれた石柱が立っていました。
問答河岸は、かつて北品川の海岸にあった波止場の名前で、三代将軍徳川家光が東海寺に訪れた際、沢庵和尚がこの辺りまで出迎えて禅問答をしたという話が『徳川実記』に記載されています。 家光の「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」という問いに、沢庵和尚は「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と答えたと伝わっています。実際の「問答河岸」はもう少し南に下ったあたりといわれています。
「問答河岸跡」を過ぎしばらくすると、前方に品川駅周辺の高層ビル群が見えてきました。
そして京浜急行の踏切を電車が通過しました。
踏切の手前右側には「一番 東海道八ッ山口 右 品川宿」と刻まれた道標が立っていました。ここが「品川宿」の江戸側の入口のようです。
つづく































