京浜急行の踏切を超えると、歩道が少し広くなっており、品川宿の案内図や公衆トイレもあり、ポケットパークのようになっていました。

 

    

また反対側歩道の植え込みの中に東海道53次の宿場名を刻んだ石柱が並んでいました。

 

石柱列の端には「八ッ山橋」がありますが、橋のたもとに親柱が立っていました。石製のものと鉄製の背の高い親柱がありますが、石製は2代目、鉄製は3代目の橋で、現在の橋は4代目になります。この橋は川に架かる橋ではなく、東海道とJR東海道線を立体交差させるために、明治5年(1872)に架けられた橋です。大正2年(1913)、昭和5年(1930)、昭和60年(1985)に架け替えられ、現在の萌黄色の橋は4代目となります。 日本の映画史に残る名作『ゴジラ』で、ゴジラが上陸の第一歩を印したのは、この八ッ山陸橋でした。 八ッ山は武蔵台地の突端の丘陵で、地名は海岸に突き出た岬が八つあったことに由来します。

 

「八ッ山橋」を渡り国道15号線に合流し右折すると、右手の京浜急行線の立体化の工事が進んでいました。工事の説明図をみても良く分りませんが、泉岳寺駅から新馬場駅までの1.7kmの区間について、鉄道と道路を連続的に立体化するもので、これにより3か所の踏切が無くなるそうです。

 

品川駅前の横断歩道の近くに「品川駅創業記念碑」があるはずなのですが、工事のため移設されたのか見つけることができませんでした。

 

あればこのような石碑でしたが、この石碑には「(旧暦)明治5年5月7日 品川駅創業記念碑」と刻まれています。日本の鉄道開業は、(旧暦)明治5年9月12日ですので、品川横浜間はそれより4か月早く開業したことになります。正式には新橋横浜間が開業した日になっています。

 

    

品川駅を過ぎ、JRの新駅「高輪ゲートウェイ駅」の入口「高輪2丁目交差点」の反対側「桂坂」の入口角に「港区町名由来板」がありました。この地は海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていましたが、転じて「高縄」から「高輪」になりました。

 

    

「港区町名由来板」から1分強歩くと、左手奥に「高輪神社」がありました。

「高輪神社」は明応年間(1492-1501)に稲荷神社として創建され、弘化2年(1845)の大火により焼失しました。昭和4年社名を稲荷神社より高輪神社に改称しました。

 

    

「高輪神社」から3、4分歩くと、「泉岳寺交差点」に着きました。交差点を左折して300mほど行くと、赤穂義士の墓がある「泉岳寺」があります。

 

    

「泉岳寺交差点」から約3分、反対側(海側)の歩道脇に「高輪大木戸跡」の石碑が立っているのが見えました。石碑の立っている場所には小さな塚になっています。

 

「大木戸跡」から10分弱歩くと「札ノ辻交差点」に着きました。

 

    

「札ノ辻交差点」の歩道橋を渡り、旧東海道(国道15号線)の海側の歩道を約6分歩くと、右側に建つ新しいオフィスビルの一角に「西郷・勝会見碑」がありました。

 

    

このビルが建つ敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日、幕府陸軍総裁勝海舟が江戸100万の市民を戦火から守るため、西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」が行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある土地です。

 

    

しばらく国道15号線の歩道を歩き、「芝4丁目交差点」を過ぎると

 

前方に「首都高速都心環状線」の高架が見えてきました。

 

高架下の「金杉橋」を渡ると、右手に高輪と同じような「芝地区町名由来板」がありました。

「金杉橋」は、芝1丁目と浜松町2丁目の間を流れる古川に架かる国道15号線の橋で、現在の橋は、1971年に架替えられたもので全長19m、幅員42mです。江戸時代に東海道の公儀橋として架橋され、近くにあった「センダン」の木が光って見えるようであったことから「金杉橋」と名付けられたと伝えられています。

 

・元禄9年(1696)多門(※1)建設の中止によりその予定地は幕府御坊主(※2)の拝領町屋敷に払い下げられ、一時「同朋町」(※3)と呼ばれていました。しかし各所に「同朋町」があったため、金杉橋の河口側は、海に近いため「芝湊町」と呼ばれるようになりました。

(※1)城の石垣の上に築いた長屋造りの建物で、兵器庫と防壁を兼ねる。

(※2)江戸城で将軍や重役、大名たちを世話し、調度を整えたりする役職の人々。

(※3)当時幕府御坊主を同朋と称した。

・金杉橋上流の北側の狭い地域は「土手跡町」と呼ばれていましたが、多門建設のために土手が築かれた跡だからです。

・漁業が盛んだったこの地域の網干場があったことから、「芝湊町」の北側は「新網町」と呼ばれていました。

 

    

「金杉橋」を過ぎ約6分、道路の反対側(山側)に「芝大神宮」が見えました。

ちょうど秋の例祭(だらだら祭り)の最中で、神輿が出ていました。「芝大神宮」の「だらだら祭り」は江戸東京を代表する秋祭りとして有名です。東京都心部の多くの神社の祭礼が夏祭りとして行われているのに対し、「芝大神宮」のお祭りはあくまで秋祭りで、五穀豊穣の神を祀る神社にふさわしいお祭りとも言えます。

「芝大神宮」のお祭りは長期間行われるのが特徴で、例年9月11日から21日の11日間にもおよび、日本一長いお祭りであるとも言われてきました。だらだらと長い間祭りが続くので「だらだら祭り」の俗称が生まれてきたわけです。

「だらだら祭り」だからではないのでしょうが、今見た神輿には掛け声やホイッスルの音は無く、ただ粛々とだらだらと進んでいました。

 

    

「芝大神宮」から3、4分歩き、「浜松町1丁目交差点」を斜め右にさらに約5分進むと、前方に「新橋駅」が見えてきました。

 

「新橋駅」の手前、環状2号線(通称マッカーサー通り)との交差点右手前角に「日比谷神社」の小さな社がこじんまりと建っていました。なぜ新橋に「日比谷」かというと

「日比谷神社」は、古くから旧麹町区日比谷公園の大塚山という所に鎮座し、「日比谷稲荷明神旅(さ)泊(ば)稲荷明神」と称していました。慶長11年(1606)、江戸城築城に際し日比谷御門を造営することとなり、氏子と共に芝口に移動となりますが、町名は従来のまま、日比谷となっていました。しかし、寛永7年(1630)年、新橋に新しく芝口御門を造営することになり、町名も日比谷町から芝口町へと改称することになりましたが、神社の社号は変えることなく現在に至っています。

 

ガードを過ぎると、「ゆりかもめ」の新橋駅がありました。

 

    

「ゆりかもめ」の新橋駅から1分強歩き、大きな交差点を右折し約1分行くと、右手に「鉄道博物館」がありました。

「鉄道博物館」は、日本の鉄道開業の地である汐留の歴史をご紹介するとともに、明治期に日本の近代化を牽引した鉄道の発展と影響を、様々な事物を通じて紹介する施設で、建物は「旧新橋停車場駅舎」を復元しています。

 

「旧新橋駅」は、大正3年に汐留駅と改称され、貨物専用駅として東京の経済活動を支えてきましたが、関東大震災により焼失し、昭和9年汐留駅改修工事のため、残っていたプラットホームや残っていた諸施設は解体されました。その後平成3年から行われた発掘調査の結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなどの礎石が発掘され、平成8年12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が「旧新橋停車場跡」として国の史跡に指定されました。

 

旧東海道に戻ると、目の前は「銀座でした。

 

    

銀座と新橋の境を通る首都高速の高架の手前に「銀座柳の碑」が立っていました。「銀座の柳」は、西條八十作詞、中山晋平作曲の楽曲で、明治20年頃街路樹として銀座の街に植えられた柳は、街の発展と共に銀座の名物となり、この柳を歌ったこの曲は全国を風靡しました。これを記念して昭和29年4月1日、銀座通聯合会がこの碑を建てました。

歌碑の隣に立つ親柱は、かって新橋と銀座の間を流れていた「汐留川」に架けられていた橋の親柱で、橋は昭和38年川の埋め立て工事のため無くなりました。

 

銀座通りは歩行者天国になっていて、人であふれていました。

 

銀座2丁目の歩道に「銀座発祥の地 銀座役所跡」と刻まれた石碑が立っていました。

慶長17年(1612)、銀貨幣を造る銀座役所(銀貨幣鋳造所)が駿府の両替町からこの地に移転しました。すでに日本橋にあった「金座役所」が両替町と呼ばれていたため、この地は新両替町と呼ばれました。新両替町は通称「銀座町」と呼ばれていましたが、明治2年に正式に銀座町になりました。

 

銀座と京橋の間を走る首都高速高架の手前に「煉瓦銀座之碑」と「京橋の親柱」が立っていました。

    

明治5年の大火の後、街の不燃化が計画されて銀座煉瓦街が建設されました。以後この煉瓦街と街路樹の柳は銀座の名物となりましたが、煉瓦街も柳も街の発展とともに姿を消しました。その後煉瓦が発掘されたのを契機に昭和31年、当時のままの「フランス積み」という方式で再現し、そこに煉瓦の碑が建てられました。
 碑のそばに大正11年に造られた京橋の親柱が残されています。

 

反対側の歩道に立つ交番は、その京橋親柱の形を模して造られていました。

 

首都高速の高架を過ぎると「京橋の碑」が立っていました。

「京橋」は、昭和34年に京橋川の埋め立てによって撤去されましたが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。橋北詰東側と南詰西側に残る二本の親柱は、明治8年当時の石造の橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形で、詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。
一方、先ほど見た橋南詰東側に残る親柱は、大正11年にかけられた橋のものです。石及びコンクリート造で、照明設備を備えたものです。京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。

 

横断歩道を渡り京橋の北詰西側に行くと、「江戸歌舞伎発祥の地」の碑が立っていました。寛永元年(1624)、猿若勘三郎(初代:中村勘三郎)が中橋南地(現在の日本橋と京橋の中間)に猿若中村座(猿若座)の櫓(やぐら)をあげたのが江戸歌舞伎の始まりです。しかし実際に「猿若座」があったのは、現在の中央区京橋1丁目、安政元年(1854)創業の老舗金物屋「西勘本店」が建つあたりとされています。

 

江戸歌舞伎発祥の地」の碑から1分強歩くと、日本橋まで残り1kmの所まで来ました。ようやく長かった歩き旅もゴールまじかです。

 

    

懐かしい「明治屋」の前を過ぎ、「京橋2丁目交差点」に着きました。

 

    

この交差点を左折して400mほど行くと東京駅がありますが、左折してすぐの中央分離帯の中に、「平和の鐘」のモニュメントが立っていました。高さ7mのこの像は、平成元年3月15日に「平和都市宣言1周年」を記念して建てられたものです。

 

高島屋百貨店を過ぎれば日本橋はすぐ先です。

 

    

令和6年9月16日午後4時10分過ぎ、令和3年4月11日に「草津宿」を出発してから3年5か月(24日)をかけ、ようやく旧東海道を歩き切りました

 

    

日本橋北詰にある広場(元禄広場)には、

 

道路原票」のレプリカや(本物は道路の真ん中にあります)

 

    

里程標」などがありました。

 

ところでここで二人そろって記念写真を撮る予定でしたが、10歳になる孫がさいたま市の「浦和美園駅」から一人で東京駅まで迎えに来るとのことで、それも「王子駅」で京浜東北線に乗り換えれば簡単なのに、わざわざ丸の内線に乗りたいといって、後楽園経由で東京駅まで来るとのことなので、心配で、急いで東京駅に向かうことに頭がいっぱいで記念写真を撮ることはすっかり忘れていました。

 

喧嘩すること、雨に降られること、骨折すること、いろいろありましたが、まずは無事に完歩できたこと感謝したいと思います。

 

もう二人とも年ですので、次は長距離ではなく短距離の旧道を歩こうかと思っています。熊野古道などもいいかなと考えています。

 

長らくお付き合いありがとうございました。