昼食を終え歩きだしましたが、相変わらず広い幹線道の歩道で、面白みがありませんでした。

 

    

約4分歩くと、左手に「浅間神社」の鳥居と参道が続いていました。

 

鳥居前の横断歩道を渡り、右側の歩道を歩きだすとすぐ「浅間神社前」と書かれた標柱がありました。そこに書かれた説明によりますと、

室町時代の永禄年間(1558~1570)に、そのころ盛んであった「富士信仰」をもとに村内安全を祈願するためこの神社を勧請した言われています。境内には樹齢600年を超えると言われる多くのシイノキがあり、西には遠く富士山や箱根連山を見ることができるそうです。

 

    

浅間神社前から2分弱歩くと、標柱だけですが「原宿一里塚跡」がありました。江戸より11番目の一里塚で「吹上の一里塚」とも言われています。当時は塚の上に松が植えられていました。明治9年に里程標の杭を立てる際、一里塚は不用となり取り壊されてしまいました。いまは道路工事の最中で余計に殺風景でした。

 

    

「原宿一里塚」を過ぎたあたりから道路工事現場の中の仮設歩道をしばらく歩きました。

 

新しくできた擁壁の上には戸建て住宅が並んでいました。

 

「原宿一里塚跡」から約8分、老人ホームの前に「勘平お軽戸塚山中道行の場」と刻まれた石碑が立っていました。

この碑は、人形浄瑠璃や歌舞伎の「道行旅路の花聟」と「仮名手本忠臣蔵」に絡む登場人物、勘平とお軽が鎌倉から落ち行く途中、桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中で見せる美しく華やかな所作事の場面に因んで建てられたものだそうです。

 

    

石碑から約2分歩くと、環状3号線が国道1号線から右に分かれて下って行きました。

 

    

そこには環状3号線を跨ぐ巨大な歩道橋が弧を描いていました。

 

    

歩道橋から国道1号線に下り約1分歩くと、マンションの前に「大坂松並木」に関する説明板が立っていました。

 

ここ大坂では、天気の良い日には松並木から美しい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画材となっています。昭和7年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り下の方は10mほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。かってはもっと急な坂だったようです。

 

    

「大坂松並木」の説明板から1、2分歩くと、旧東海道は右に分かれました。実はこの道も国道1号線です。直進している国道1号線は新しく建設されたバイパスです。

 

国道1号バイパスから分かれて1分弱、「大坂上交差点」辺りから下り坂になってきました。

 

    

「大坂上交差点」から4、5分歩くと、マンションの植え込みの中に下半分が隠れてしまった石碑がありました。多分「大坂」と書かれているものと思われます。

 

    

その50m程先には、「大坂」の説明板がありました。説明板によりますと、

大坂は2つの坂から成り立っていて、「新編相模国風土記稿」によりますと、1番坂登り1町余(110m余)、2番坂登り30間余(54m余)と書かれています、また嘉永6年(1853)には仇討があったそうです。

 

さらに1分、旧東海道が右にカーブしながら下って行く反対側の歩道際に庚申塔が数体並んでいました。

 

    

「大坂」の説明板から約5分、坂の傾斜もほぼ終わった辺りに「江戸見附跡」の標柱が立っていました。「戸塚宿」に着いたようです。

 

    

「江戸見附跡」を過ぎ旧東海道が左にカーブする辺りに「富塚八幡宮」の鳥居がありました。

 

    

社殿は、鳥居奥の数10段の石段の上にあります。

「富塚八幡宮」は、戸塚宿の総鎮守で祭神は誉田別命(応神天皇)と富属彦命の二柱です。源頼義・義家父子がここに野営し、夢で応神天皇の信託を受け戦いに勝利した事に感謝し、延久4年(1072)に社殿を造りその御霊を勧請したとのことです。山頂の古墳は富属彦命の墳墓とされており、「富塚」と呼ばれ、これが「戸塚」の地名の起こりと言われています。

 

「富塚八幡宮」から約3分歩くと「八坂神社前交差点」に着きますが、交差点を左折すると、

    

道標が立っていました。「これよ里かまくら道」と刻まれているそうですが読めませんでした。この場所は元々の場所ではなく移設された場所のようです。

 

道標の向かいに「八坂神社」が見えました。

 

    

交差点に戻り少し歩くと左手に鳥居があり、その奥の階段の上に社殿が建っていました。「八坂神社」は、元亀3年(1572)6月、郷の庄司内田兵庫源政親が牛頭天王社を草創勧請したものですが、いつしか社殿敗壞し、祭祀を欠くこと200年に及びました。内田氏の末葉内田佐衛門蔚源政利がこれを憂い、元禄元年(1688)に再興をはかり祭祀を行いました。明治初年、「八坂社」と改め更に昭和7年9月19日、「八坂神社」と改称しました。

 

祭典は7月7日から14日までで、行事は7月14日、無病息災を祈願して行われる「お札まき」は、町内男子拾名が女装し渋団扇を打ち原始的踊をしつつ五色のお札を中天に撒く珍しい祭りです。

 

境内には、「明治天皇東幸史跡」と刻まれた石碑が立っていました。

 

    

「八坂神社」から2、3分、戸塚消防署の先に「澤邊本陣跡」がありました。

 

    

澤邊本陣は戸塚宿に2つあった本陣の一つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設に当たって幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一角に戸塚宿の鎮守の一つ「羽黒神社」がありますが、弘治2年(1555)年に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。

 

本陣跡を示す標柱の横には、「明治天皇戸塚行在所址」の石碑もありました。

 

    

「澤邊本陣跡」から2、3分先のスルガ銀行前に「内田本陣跡」の説明板が立っていました。「内田本陣」は間口18間(32.8m)奥行き14間(25.5m)で、畳数は152畳もあったと言われています。

 

スルガ銀行前の「バスセンター前交差点」を渡り100mほど歩くと大きな横断橋がありました。

 

横断橋を渡り、「清源院交差点」を右折しさらに100mほど歩くと、東海道本線にぶつかり旧東海道は行き止まりになりましたが、ここにエレベータが設置された大きな歩道橋があり、東海道本線を横断していました。

 

歩道橋の上からはJR戸塚駅が見えました。

 

    

歩道橋で東海道本線を渡り地上に下りると、すぐ先に「吉田町問屋場跡」がありました。戸塚宿には3か所の問屋場があり、交代で役目を務め、ここ吉田町問屋場は、毎月5日から11までを担当しました。

 

つづく