「吉田町問屋場跡」から約5分、旧東海道が左にカーブする辺り、コインパーキングの脇左奥に「善了寺」がありました。

 

    

「善了寺」の建物は普通の寺院の建物とは違い、かなり斬新的なデザインの建物で、本堂の右には、お寺には似つかわないカフェがありました。カフェの名前は「COYORIDO CAFE」で、さまざまな方に立ち寄っていただける「まちの小さなヨリドコロ」として、そしてまちの中に様々な「小さなヨリドコロ」が増えていくように、という考えでつくられたようです。

 

「善了寺」から約1分、旧東海道は左からJR東海道線をアンダーパスで越えてきた道路と「矢部団地入口交差点」で合流しました。

 

    

交差点から数十メートル歩くと、柏尾川に架かる「吉田大橋」がありましたが、欄干には広重が描く浮世絵が掲げられていました。

 

    

「吉田大橋」から約1分、ごみ置き場の横に「吉田一里塚跡」の標柱がありました。江戸から数えてちょうど10番目の一里塚ですが、「吉田一里塚」は明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されました。昔はこれだけの距離を一日で歩きました。私は、その半分の20kmくらいしか歩いていませんが。

 

    

一里塚跡から3分強歩くと左側にイオンのショッピングセンターがありましたが、そこに戸塚宿周辺旧東海道沿いの案内図がありました。

 

案内板の横には、戸塚宿の「江戸方見附跡」の標柱がありました。

 

見附跡から約3分、左手にブリジストンの大きな工場があり、ちょうどソメイヨシノが満開でした。

 

    

ブリジストンの工場の前に「舞岡川」に架かる「五大夫橋」がありました。

橋の名前の由来は、石巻(康慶)五大夫は小田原北条氏の家臣で、豊臣秀吉の小田原城攻めのとき北条方の使者でした。北条氏滅亡後、鎌倉郡中田村で謹慎していた五大夫が、天正18年(1590)江戸に入る徳川家康をこの辺りで出迎えたことから、「五大夫橋」の名が付いたといいます。

 

橋を渡った先の「舞岡交差点」を右折しましたが、この辺りから旧東海道は現在の国道1号線から離れることが多く、このような案内板が各所コーナーに設置してありました。

※この地図は上が南になっています。我々は地図では右から来たことになります。

 

    

「舞岡川」に沿って1、2分歩くと旧東海道は「元舞橋」の交差点で左に曲がりました。

 

「元舞橋」から2、3分歩いていると、左手に明治時代に建てられたと思われる、レンガ造りの建物がありました。案内板がなくどのような建物か分からなかったので、帰ってから調べましたところ、

 

横浜の開港で、西洋文化が急速に入ってきた頃。柏尾の東海道沿いに、当時の人々が「異人館」と呼ぶ外国人専用の旅館がありました。異人館の主人カーティスが行っていたハム製造を自分達の手で行い、村に産業を、と考えた斉藤満平さんたちは、カーティスの妻加藤かねさんの協力で製法を学び、明治10年代中頃、日本人として初めて、ハムの製造を始めました。
人々の暮らしの洋風化と共にハムは飛ぶように売れ、当時戸塚は鎌倉郡に属していたので「鎌倉ハム」として全国的に知られるようになりました。
この倉庫は、ハムの冷蔵に使われていたもので、所有者の斉藤さんによれば横浜港にある赤レンガ倉庫と同じ頃、明治20年代の建造とのことです。壁の厚さが1メートルほどもあり、関東大震災にも耐えた堅牢な作りです。現在、ここでのハムの製造はおこなわれていませんが、斉藤さん宅の自家用貯蔵庫として、今でも現役だそうです。

また、カーティスからハムを仕入れて鎌倉郡小坂村(現鎌倉市)の大船駅でサンドイッチを販売していた富岡周蔵も、明治23年(1890)にハムの製造に参入しました。鎌倉郡では他に、柏尾の岡部家、下和泉の清水家、下飯田の田丸家でもハムの製造が行われたそうです。

ちなみにこのレンガ倉庫の少し手前に「さいとうハム製造本舗」の建物がありましたが、残念ながら見逃しました。

 

    

レンガ倉庫から60mほど先にある井上眼科の階段脇に「史蹟への小径」と書かれた石碑がありました。

 

しかしその先の道は、史蹟を感じるような道ではありませんでしたが、この道を200mほど行くと「護良親王首洗いの井戸」があるようです。

 

後醍醐天皇の第一皇子護良(もりなが)親王は武に優れ、征夷大将軍として父の建武新政権を支えました。ところが南北朝動乱のさなか捕らえられ、建武2年(1335年)幽閉先の鎌倉二階堂(現在の鎌倉宮)で足利氏方の手によって暗殺されました。

その後親王の首を奪い取った側近は、皇子救出のため柏尾で待つ仲間のもとへ逃れる途中、この井戸で首を洗い清めたと伝えられています。

 

    

「史蹟の小径」の石碑から2分弱歩くと、旧東海道は再び国道1号線に合流しました

合流地点に案内板が立っていましたが、「不動坂」と書かれているだけでした。

 

国道1号線はごく普通の幹線道路でした。

 

    

街道の右手には、かなり古そうな土蔵が散見されました。しかし旧街道筋の雰囲気を感じさせる建物ではありません。

 

国道井1号線に合流してから10分強歩いていると、前方に高架橋が見えました。この橋は、左手奥にある「秋葉三叉路」と柏尾川、東海道本線、国道1号線を超えて、「秋葉立体入口交差点」とを結ぶ高架橋です。

 

    

高架橋まで行くと、旧東海道は高架橋の手前で右折し、しばらく高架橋に沿って歩きました。

 

国道1号線から分かれて3分弱、道路の右手に「提灯立場跡」の説明板がありました。この立場は、上柏尾町地内提灯にあり、江戸からの道程に於いて信濃坂の急坂を下りきったところで、戸塚宿まではあと一息の場所にありました。

ところで、立場が繁栄すると宿場と混同され、間の宿(あいのじゅく)と呼ばれるようになったそうです。

 

    

提灯立場跡から1分弱、旧東海道は再び国道1号線に合流しました。「赤関橋交差点」の手前の「赤関橋」を渡り、

 

    

国道1号線の歩道を30mほど歩き、「赤関橋」の案内板が立つ角で、また国道1号線から分かれ「柏尾川」に沿って歩きました。

 

    

川沿いの道を約2分歩くと旧東海道は左にカーブし、またまた国道1号線に出会いました。

 

    

しかし今度は国道を歩くのではなく、国道を横断し直進しました。遠方には今日の目的地である「東戸塚駅」周辺の高層マンション群が見えてきました。

 

    

約5分川沿いの道を歩くと変則的な五差路がありましたが、旧東海道は表示に従い直進です。

 

五差路から約2分、県道218号線の高架下を過ぎる辺りから旧東海道は少し登り坂になってきました。この狭い道を上大岡駅行のバスが走っていました。

 

    

傾斜はますます厳しくなり、20km近く歩いて来た身体にはかなり応えました。

 

    

途中案内図もあり、くねくねした住宅地の中の道を迷わず約3分登ってきましたが、環状2号線の大きな道により旧東海道は分断されていました。ここは目の前の歩道橋を使うしかなさそうです。

 

歩道橋の手前に案内板があり、それには横断橋を使うよう示されていました。

 

    

横断橋の先には石段があり、まだ登りは続きそうでした。橋を渡りきると、右手に「品濃坂」と刻まれたまだ新しそうな道標が立っていました。環状2号線建設時に立てられたのでしょうか。

 

石段の上の車止めによれば、旧東海道は直進でした。

 

その車止めの先に「品濃坂上」と書かれた案内板がありました。

品濃坂は、朝早く江戸を発ち、日暮れまでに戸塚宿へと向かう旅人にとって宿場町までもう一歩のところです。一方江戸に向かう人にとっては最後の急な上り坂で、この難所を越えれば境木の立場まであと一息でした。写真は明治初期の品濃坂の様子です。

 

    

1分弱かけて最後の上り坂を上り切り、丁字路を左折して、閑静な住宅地を歩きました。

 

    

丁字路を左折してから約4分、前方に小さなお堂「福寿観音堂」がありましたが、

 

ここで旧東海道から分かれ左折し、デッキを使い環状2号線を越え、東戸塚駅に向かいました。

 

デッキを渡るとその先は高層マンション群になっていて、低層部はショッピングセンターになっていました。

 

デッキからショッピングセンター内を3階分ほど下りていくと、やっと東戸塚駅にたどり着きました。

 

※ 東戸塚駅について

「福寿観音堂」の境内にあった石碑に東戸塚駅開設の由来が刻まれていましたが、難解なので調べてみたところ、

 

横浜-久里浜の駅間平均距離が約4kmに対し、戸塚-保土ヶ谷の距離は約9kmと長く、中間に駅を求めた沿線住民の要望で大正12(1923)年に「武蔵駅」の設置が決定されました。
しかし、同年の関東大震災とそれに続く恐慌、世界大戦などの影響で計画が頓挫しましたが、その後再び住民運動が高まり、国鉄・自治体・政治家などへの度重なる陳情と交渉を経て、昭和55(1980)年10月に「東戸塚」と名を変えて営業を開始した「請願駅」です。誘致運動では10万5千人もの署名が集まったと言われます。
駅の設置にあたり、用地と建設費用は一切地元負担とする厳しい条件がありましたが、誘致運動の中心に立った当時の新一開発興行の社長福原政二郎氏(故人)は、駅の東西広場の用地及び鉄道敷地の約13000平方メートルと工事建設費30億円の内、25億円を提供しました(残りの5億円は神奈川県と横浜市が負担)。福原氏によるこの多大な貢献がなければ、駅の新設は更に先送りになっていたかも知れません。
1990年代から駅前再開発事業が進み、百貨店や大型ショッピングモールなどの商業施設が相次いで開業しまし、東戸塚駅の1日平均乗車人数は、最多であった5万9千人(2018年)に比べ、最近では4万9千人(2022年)と減少していますが、横須賀線の単独駅では最多となっています。

 

旧東海道歩き旅22日目 完歩