遊行寺橋」を渡るとすぐ正面に「遊行寺」の山門が見えました。

 

「遊行寺」の手前に「ふじさわ宿交流館」がありましたが、旧東海道はここを右折しました。「ふじさわ宿交流館」は、旧東海道藤沢宿の歴史、文化に親しむ機会を提供するとともに、地域住民や来訪客の交流の場として、2016年4月29日に開館しました。 

 

交流館の前には、「高札」が復元されており、

 

そこから100m弱歩き、県道30号線を左折しました。

 

左折してから約2分歩くと、「遊行寺」への入口がありました。

「遊行寺」の開山は俣野(現在の藤沢市、横浜市周辺)の地頭であった俣野氏の出身である遊行4代他阿呑海上人で、その兄である俣野五郎景平の寄進により正中2年(1325)に創建されました。創建以来、数度にわたる戦火、火災により堂宇は度々焼失しましたが、その都度復興してきました。

 

現在の「遊行寺」は、東海道随一と謳われる木造本堂をはじめとした伽藍〔平成27年(2015)に10棟が国の登録有形文化財に登録〕や樹齢700年と推定される大銀杏などを有する修行道場として、また市民の憩いの場として今日に至っています。

 

「遊行寺」への入口に入ると目の前の桜が満開でした。

 

短い坂道を登り境内に入ると樹齢650~700年と推定される大銀杏がありました。幹回り710cmの巨木で現在の樹高は21mですが、昭和57年8月の台風により幹の途中で折れてしまう前は樹高は31mあったそうです。「遊行寺」のシンボルで市内で一番太い木だそうです。

 

入口横には「藤沢敵御方供養塔」と呼ばれる供養塔が立っていました。この石塔は、応永23年、関東を統治する足利持氏に対し補佐役の上杉禅秀が反乱を起こして発生した「上杉禅秀の乱」で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永25年(1418)に造立されたものです。高さ149.5cmの安山岩製です。

 

入口の坂道の途中右手に「小栗判官墓所入口」と刻まれた標柱がありましたので行ってみることにしました。

 

数段の石段を登り、幅2mほどの通路を行くと

 

「酒井忠重逆修六地蔵供養塔」と呼ばれる6体のお地蔵さまが立っていました。

酒井長門守忠重が万治3年(1660)1月15日に逆修のために建立したものです。逆修とは生前に自分のための仏事をして冥福(めいふく)を祈ることだそうです。

 

    

案内の標柱から約150mほど歩き「長生院」の手前を墓地の方へ左折すると「小栗判官墓地入口」との案内板があり、その先に小さな木戸が開いていました。

 

木戸を入り建物に沿って左に回り込むと、その先に「小栗判官の墓」がありました。

小栗判官の墓がある長生院は、江戸時代には小栗判官伝説の流布により有名となり、当時の東海道道中案内記の藤沢宿には、必ずと言って良い程長生院の「小栗判官・照手姫」伝説が紹介されていて、藤沢を通る人々にとって小栗判官・照手姫の史跡は、見過ごすことの出来ないスポットとなっていました。

 

小栗判官・照子姫物語は、説明すると長くなりますので省きますが、簡単に言いますと、

常陸の国真壁郡の小栗(現茨城県真壁郡協和町)に住んでいた「小栗満重」という大名が、「上杉禅秀の乱」で敗れた上杉方に付いていたため、足利持氏に攻められ、わずか10人の家来とともに三河国に落のびました。その途中相模国の郷氏横山大膳の館に留まるうちに、妓女の「照子姫」と親しくなり結婚しました。

実は横山は旅人を殺し金品を奪う盗賊であったので、幾度となく「小栗満重」を殺そうとし、最後は毒入りの酒を飲ませま「小栗満重」を殺してしまいました。そのころ藤沢の遊行寺の大空(たいくう)上人の枕元に閻魔大王が現れ、「小栗満重」を助けるようお告げがありました。お告げに従い上野原に行くと10人の家来は息絶えていましたが、「小栗満重」はかすかに息がありました。上人は、夢のお告げにしたがい満重を熊野に送り温泉で体を治させることにし、おかげで「小栗満重」は回復しました。

照手姫は、満重が毒を盛られた後、世をはかなんで密かに横山の屋敷を抜け出しましたが、幾度の苦難の末最後には人買いに売りとばされた。

体が元に戻った満重は、常陸の領地を与えられ判官の地位を授けられた後、兵をひきいて横山大膳を討つと、遊行寺に詣り、上人にお礼するとともに、亡くなった家来達の菩提をとむらいました。

照手姫は、美濃の青墓(現岐阜県大垣市)で下女として働いている時、満重に救い出され、満重が亡くなると弟の助重が領地を継ぎ、遊行寺に参り、満重と家来の墓を建てました。

照手姫も仏門にはいり、遊行寺内に草庵を営みましたが、永享元年(1429)長生院を建てました。

というのが長生院に伝わる伝説です。

簡単でなくてすみません。

 

    

「小栗満重」の左には「照子姫」の墓があり、その間には名馬「鬼鹿気の墓」もありました。

 

墓の向かいには「照子姫」か建立したという「厄除地蔵尊」が3体立っていました。

 

    

大銀杏の下のベンチで一休みした後旧東海道に戻り約30m進むと、「江戸見附跡」がありました。江戸時代の「東海道分間延絵図」の江戸見附には、台形状の土手が画かれています。

 

「遊行寺」の横の道は「遊行寺坂」と呼ばれ、かなり長い上り坂になっていました。

 

「江戸見附跡」から約2分、左手の土手の中に「藤沢・遊行寺坂一里塚跡」がありました。江戸時代の東海道はこの崖の上の高さにあり、一里塚もその位置にありましたが、現在の県道30号線の掘削工事によりその姿を消してしまいました。江戸時代の「遊行寺坂」は今よりもっと急な坂道だったと考えられます。

 

道路の反対側にも一里塚の説明板が立っていました。

 

「一里塚跡」から約6分、「西富歩道橋」を過ぎたあたり、まだ上り坂は続きますが道路の傾斜がほぼなくなりました。この辺りの標高は約50m、「遊行寺橋」辺りの標高が約4mですので、50m弱上ってきたことになります。

 

        

さらに3分弱歩くと、「旧東海道松並木跡」と刻まれた石碑と説明板がありました。

 

 

    

江戸時代にはうっそうとした松並木がありましたが、昭和30年代の松くい虫の被害でほとんどが枯れてしまいました。現在石碑周辺に数本の松はありましたが、その先の街路樹はほとんど新しく植えられた松以外の樹木でした。

 

右側の歩道に移動すると、歩道は各所の草花で飾られていました。

 

歩道の一角に「鉄砲宿」を書かれた標柱が立っていましたが、この辺りに伝わる「おはん」と呼ばれる大蛇に関する伝説に出てくる猟師が住んでいたところだそうです。

この大蛇は、住みついた池の側を通る人の「影」を食べ飢えをしのいでいたのですが、影を食われた人がその後衰弱してしい、村人はこの池を「影取池」と呼び恐れた

そうです。

 

    

「松並木跡」の石碑から5、6分歩くと、植樹された歩道が途切れるところに「相対道祖神」が祀られていました。

 

さらに約2分歩くと、国道1号線と合流しました。

 

国道1号線と合流した先には歩道がないため、旧東海道は国道1号線の横を並行して走る道路を進みました。

 

    

国道1号線の擁壁脇に「影取池」の案内板がありました。「影取池」は先ほど見てきた「鉄砲宿」の伝説に出てくる大蛇が住みついた池の事です。この辺りは少し窪地になっていますが、かって池だった所なのでしょうか。

 

国道脇の道路はほどなく国道1号線と同じ高さになり、しばらく並行して進みました。

 

    

「影取池」の案内板から4分弱、右手に「諏訪神社」がありました。

創建年代は不明ですが、明治40年に山谷仲町から移転してきた神社で、周辺が「鉄砲宿」ち呼ばれていたことから、武神の諏訪神社を勧請したといわれています。影取の地名の由来となった「影取池」は、この神社の奥にあったと伝えられています。

 

「諏訪神社」を過ぎたあたりでちょうど正午ごろになりましたので、適当なレストランを探しましたが、運悪く歩いている右側にはレストランはなく、すべて左側でした。仕方なく国道を横断し、崎陽軒のレストランに入りましたが予約で満杯、仕方なく少し歩き「ロイヤルホスト」に入りました。

 

つづく