森永 勝治(森永 勝也)

(左投左打 1934年4月5日~1993年12月7日)
山口県柳井市出身

1958年から1962年までは登録名 森永 勝治

今回紹介する選手は
50年代後半から60年代中盤にかけて「広島カープ」で活躍した
森永勝治です。

 


(写真カープ50年史より)

今回の選手の名前を聞いて、どんな選手かぱっとわかる人は
余程プロ野球に詳しい人か、かなり昔からの鯉党の方だと思います。

この森永勝治という選手は通算成績でも
シーズン成績でも目立ったものを残したわけではありません。
しかし日本プロ野球史でもかなり偉大な記録を残しました。

それらも含めて森永勝治を紹介をしていきます、

高校時代は柳井商工高で投手として活躍。
3年生時は夏の甲子園に出場。
後にプロで活躍する堀内庄(巨人)と二回戦で、
準々決勝で植村義信(毎日)と投げ合うという経験をしている。

専修大学に進学した後に外野手に転向。
一年生の春季リーグからレギュラーになり在学中は全試合に出場した。
ちなみに大学時でも明治大学の秋山登・土井淳バッテリーと対戦し惜敗した。

大学卒業後は熊谷組に入社。
1年目から都市対抗野球大会に出場するなど実力が認められ主力に、
4番打者としてチーム初優勝に貢献するなど活躍した。
この優勝の際の決勝では、堀本律雄(巨人)擁する日通浦和と対戦するなど
アマチュアのそれぞれの大会でプロ野球の世界でも名投手と呼ばれる
面々と対戦している。

アマチュア時代でも結構濃い経歴を辿っているが
1958年にようやく広島カープに入団することになる。



1年目の1958年の4月5日の開幕戦、中日との一回戦で
新人ながら6番右翼手として出場。
なんと5打数3安打3打点という大活躍を見せるという
今後の活躍を予感させる働きであった。チームも15対4という大差で勝利した。
結局この年は118試合出場で、打率.272 13本塁打 45打点と大活躍。
大卒社会人という今の価値観でも即戦力としての活躍を十分残したといえるだろう。

1962年(昭和37年)首位打者。

ベストナイン獲得(こちらは2年連続)した。

 

そして、広島カープ球団として初の首位打者でもある。

1950年から1961年までにセ・リーグでは過去に巨人、阪神、中日の三球団が

持ち回りの様に首位打者を出していた(巨人9回)。

そこに風穴を開けたのだった。

この年の成績は
打率.307 11HR 55打点 10盗塁 出塁率.374 
長打率426 OPS.800 130試合出場 146安打


さぁこの年の成績なのだが、これで首位打者である。
この成績を初めて見たなら疑問を抱くだろう。

本当に首位打者の打率ですか?
上でも少し述べたがこの選手は日本プロ野球史でもかなり偉大な記録を残した。
それはいったい何なのか。
それは 2リーグ分裂後最低打率での首位打者 である。

 

1962年セ・リーグ打撃成績(NPB公式HPより)

 

球団。

なんでこんな成績で首位打者なのか。それはこの年が異常なまでの
投高打低の年だったからであり、とんでもなく投手有利の環境であった。
この年の投手を防御率ランキングで見ていくと
村山実、小山正明、金田正一、秋山登、稲川誠
ここまでの投手が防御率一点台という異常事態。
リーグ防御率ランキング15位の大石清(広島)まで防御率2点台という
打撃氷河期の時代であった。

 

セ・リーグ投手成績(NPB公式HPより)

 



こういう打低の時代を招いたのはこの年以前の打高の環境の改善があったという。
戦時中だったり戦後間もないころの日本では
道具の調達すらままならない時代があり
そういう時代で粗悪な道具を使うしかなかったが
さすがに50年代にもなるとそういった問題が解決されていった。
そしてそれに伴い品質の向上が起き、
公式試合にも高反発球が使用されるようになった。

1949年の藤村冨美男の46本塁打、
1950年の小鶴誠の51本塁打などがわかりやすいだろう。
この時代のボールはラビットボールと呼ばれる。

それに対してNPBとしてそういった打高の状態から改善を図るために
ボールの反発係数の変更が行われていった。
またこの時期あたりから変化球の種類なども増え始めたので
道具の変化、戦術の変化などの転換点で
こういった珍記録が生まれていったのだろう

ちなみに1962年の3割打者はこの森永のみ。
この年以前に首位打者に輝いたことのある
長嶋茂雄、江藤慎一といった名選手や
そしてこの後以降も大活躍を続ける王貞治も
2割台という恐ろしい時代である。



丁度この時期のリーグ打者成績を見ていくと
3割打者が極端に少ないという時期が続くという時代の特徴も
この記録から感じ取れる。

…という論評が様々なところで見受けられるが
パリーグは平気で3割打者もいれば40本塁打を記録した選手もいるので
更に疑念が深まる。

リーグで違うボールを使っていたのか、えらく非効率であるが
歴史を後追いするだけの筆者の想像では正解に近づけそうにないのは申し訳ない。

時代背景ばかり話して選手の事を忘れていたが
そんな森永勝治だが、もちろん彼自身も成績向上に励んでいた。
この年の森永は首位打者争いのライバルだった
大洋の近藤和彦の打撃から粘り打ちの打撃を見出し
打率を下げないことで技術を上げたというエピソードがある。

 

そして、近藤和彦との首位打者争いは「3割をマークすればいい」と

他人事のような気持ちでシーズンを過ごし

「まさか首位打者になるとは、夢にも思わなかった」と

無欲な打撃人であった。

この年以降も安定して成績を残していった森永であるから
元々の能力は高かったのだろう。
タイトル獲得は偶然出会ったかもしれないが
立派な成績を残すことができたのは必然であったと思う。

その後も1966年までは広島の主力であったが
1967年に巨人軍に移籍。宮本洋二郎との交換トレードであった。
巨人に移籍してからは以前に比べて試合出場数は減ったが
要所で活躍し、広島時代を想起させる活躍を見せた。

1970年で現役を引退。引退後は古巣の広島で
一軍打撃コーチ、一軍監督代理、二軍監督を経て
1974年に一軍監督も務めた。
しかし最下位に終わり1年のみで終わった。
しかしながら指導者として森永は、
古葉竹識、阿南準郎などをコーチとして復帰させ
後の黄金時代の礎を築くきっかけを作った。


プロ野球ニュースで温和な解説で、森永勝治を知った野球ファンもいるだろう。
広島カープの歴史を語るに欠かせない重要人物の一人であろう。

 

59歳の若さで亡くなったのは惜しまれる・・・。

 

 

データ協力  日本プロ野球記録

 

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データ協力 :篠浦孝氏

データ協力:たばともさん