プロ野球は分業化が進み、投手は投げることに集中することが増え、

パ・リーグは1975(昭和50)年から指名打者制度を導入。

めったに投手が打席に立つことはなくなった。

 

セ・リーグはナショナルリーグが導入していないことや

野球は9人でやるものという考えの元、

投手は打席に立っている。

 

2018(平成30)年のシーズンに

横浜DeNAベイスターズのラミネス監督が

投手を8番に入れる打線を組み話題になった。

8番に投手を入れることも、1970年代中頃には

無くなったようになり、投手は9番が指定席のようだ。

 

2024年北海道日本ハムが5月30日のセ・パ交流戦対阪神戦で

山崎福也投手が「6番・投手」としてスタメンで発表。

大いに話題となりましたが、やはり、基本は分業制時代だ。

 

しかし、戦前のプロ野球は違った。

日本では、投手は一番野球がうまい!人がなるものとして、

草野球から高校野球まである程度常識だったので、

職業野球の時代のように、選手が少なかった時代は

今より数段、投手のやることが多かったのだ。

 

それでも、公式戦で両チームが4番で投手というのは

余程のことだ。

しかし、両チーム投手で4番の試合は3試合ある。

 

その中で紹介するのは

1939(昭和14)年6月24日

セネターズ対金鯱7回戦にその滅多にないことが起こった。

金鯱の4番に古谷倉之助、セネターズにはあの野口二郎である。

 

 

 

試合は金鯱が5対4で勝利

勝利投手に古谷

敗戦投手に野口だった。

 

野口二郎は1939年にデビュー、この年は33勝19敗、459回も投げた

こちらはリーグ6位の防御率 2.04を記録、

打撃も346打数87安打 打率 .251を打ち、

リーグ25位の成績だった。

 

一方、金鯱の古谷倉之助は

金鯱軍創設時から参加した選手で、金鯱軍の公式戦最初の投手だった。

この頃はリリーフに回った中山正嘉投手がエースで

2番手だったが、この年は7勝18敗、244回を投げ

リーグ11位の防御率2.43を記録した。

打撃は221打数56安打 打率.253で24位と

野口よりランクが一つ上だった。

 

野口二郎は1946(昭和21)年に

31試合連続安打を記録するくらいの巧打者だが、

古谷倉之助も1936(昭和11)年秋季リーグで

山下実、藤村冨美男とならぶ2本塁打で

本塁打王になった強打者でもあった。

 

通算で4番投手での出場が一番多いのが野口二郎の77試合

古谷倉之助も3位で34試合出場している。

ちなみにプロ野球史上初の4番投手で出場をしたのが古谷だった。

(1936年10月4日 対阪急戦で5打数2安打を記録)

 

1939年は4番投手の試合が一番多く

76試合を数えた、この年をピークに

1949(昭和24)年までは毎年4番投手はあった。(1945年を除く)

そして、1951(昭和26)年10月7日

大阪(阪神)の藤村冨美男が4番投手で出場してから絶滅したと思われたが、

2017年10月4日 北海道日本ハムの大谷翔平投手が

対オリックス戦で4番投手で出場。実に69年ぶりに4番投手が実現した。

今後は二刀流選手が以前より誕生するかもしれないです。

 

野球雲最新刊、発売中‼

 

野球雲叢書 新刊発売中‼

 

 

 

野球雲はいつも古い野球とその周辺文化について書いています。
取材の裏話、泣く泣くカットした話、貴重な資料……
さらにディープな野球劇場はこちら↓
野球雲無料オンラインマガジン

 

 

 

データ協力 日本プロ野球記録

データ協力 たばともクラシックSTATS鑑賞

データ協力 篠浦孝氏

 

野球雲を始め、野球関連書、汀書房の本はこちらからご購入できます。