野球史に燦然と輝く大記録、大洋対名古屋 延長28回!

 

1942(昭和17)年5月24日

この日の後楽園球場は

名古屋 対 朝日、巨人 対 大洋 の2試合と変則トリプルヘッターだった。

1950年代過ぎまでプロ野球(この頃は職業野球)は

きっちりとしたフランチャイズ制ではなかったため

野球ファンとしては野球三昧な3試合の日程は珍しくなかった。

しかし、この日は3試合どころか5試合分を行ったような日だった。

 

第1試合は午前11時17分から名古屋対朝日。

延長10回 3対2で 名古屋の勝利。

 

第2試合は午後1時から大洋対巨人。

大洋が1対0で勝利した。

 

そして、第3試合

大洋 対 名古屋 の試合は午後2時40分から始まった。

 

1942(昭和17)年は太平洋戦争がはじまり、

軍事色が強まり、職業野球にも敢闘精神を求められ、

試合も勝敗が決まるまで、とことんやれ!という感じで

制服姿の軍人の試合は無料と観戦できたので、

この日も軍人の姿が見え、開始前から緊張感があった。

 

大洋の先発は鉄腕 野口二郎、名古屋は西沢道夫投手だ。

 

野口二郎投手

 

野口は前日の5月23日朝日戦で完封勝利を挙げた。

その上、9回一死までノーヒット・ノーランだったが、

鉄腕林安夫に二塁打を打たれた。

それでも、1安打完封の安定感を魅せた。

勝利した安心感から、球団マネージャーに

「明日は登板しないよね?」と伝えて

その夜は、巨人の川上哲治としこたま呑んだ。

 

野口は5月23日に二日酔いで球場入り。

第2試合は三富投手が巨人に完封勝利、野口二郎は欠場したが、

第3試合のスコアボードに「4番・投手・野口二郎」の名前が出ていた。

野口は驚き、準備に入ったが、この時はリリーフくらいで

先発は考えていなく「こんなに長くなるとは・・・」と思わなかったらしい。

 

名古屋の先発は西沢道夫投手、当時は21歳の才能あふれる投手だ。

1936(昭和11)年テストで名古屋軍に入団。その時15歳!!

1937年9月5日に16歳と4日にデビューしたのは

今も日本プロ野球最年少記録だ。

戦後は打者に転向し、中日(名古屋)ドラゴンズの強打者として活躍した。

 

西沢道夫投手

 

西沢投手は長身を生かした速球投手でありながら、

落ちるカーブを武器に台頭していった。そして、緩急をつけた

クレバーな投球術も若きエースの道へ進んでいった。

 

名古屋先攻で始まった試合は、

2回表名古屋が先制した。

野口は前日のお酒が残っていたのか、それとも、いきなりの先発で

上手く準備が出来なかったのか?立ち上がりが安定しなかった。

1回表も一死1,3塁まで攻められたが、

流石に野口二郎!カーブを使って飯塚誠、古川清蔵を三振に仕留めた。

飯塚誠はあの強打者小鶴誠選手の変名である。

しかし、不安定感が野手に伝染したのか?

2回ショート濃人のエラーで1点をとられ、

3回も濃人のエラーで1点取られた。

 

しかし、野口は6回ごろからだいぶ落ち着いてきて

6回表まで2対0で名古屋軍がリード。

その裏大洋は3番浅岡がレフト線へタイムリー二塁打で

2対2の同点に追いついた。

 

7回は6番 村松が左中間へヒット、代打苅田久徳が三遊間ヒット、

8番 佐藤の三塁送りバントが内野なんだとなり、

村松がホームへ突入、それを名古屋一塁手野口正明が

ホームへ送球したが、それが悪送球となり

苅田も生還し4対2で大洋がリードした。

 

1942年の野口二郎投手は凄まじい活躍で

1939年から1941のデビュー以来3年間の成績が

91勝42敗 1184回を投げ、自責点177、防御率1.35と

驚異的な成績で、1940年0.93、1941年0.88と

2年連続防御率1位のタイトルを取っていた。

1942年もこの前日まで12勝8敗、

防御率1.14と鉄腕の名に恥じない活躍だった。

 

一方西沢道夫投手は野口より2歳年下ながら

プロ入りは早かったが、

1940年までは39勝40敗と2番手、3番手の投手であり、

1942年のシーズンも前日まで1勝しかできていなかった。

 

このままでは実績から言えば野口二郎投手が13勝目を上げるだろうと

観客の殆どは思ったに違いない。

 

実際、野口二郎は

「こんなことを言っては失礼だが、西沢君を全く意識していなかった」と

後年、発言していた。

しかし、この日の西沢投手は

「おやっ、今日はがんばっている」と思ったそうだ。

 

野口投手は力みもなくなり、いつもの投球術で

スナップを利かせた、力みのないフォームで抑えていく、

 

9回名古屋の攻撃、

一死から桝 嘉一が四球で出塁、

飯塚のセカンドゴロで桝は二塁へ進む。

ここで、5番 古川清蔵がツーボールから

レフトスタンドへツーラン本塁打を打ち

ギリギリで4対4の同点に追いついた。

 

しかし、まさかここから

長い長い延長戦になるとはだれも思わなかっただろう。

 

古川清蔵は1922年生まれ鹿児島商業卒業後、強豪八幡製鉄に入社し、

この試合の前年名古屋軍に入団。

当初、外野手として入団したが、名古屋の捕手陣が召集され

急遽、特別手当10円をもらい捕手になった。

 

身長は175センチ以上の大型選手の多い名古屋の中では

野口投手曰く「優男(やさおとこ)」で身長170センチの選手だった。

しかし、パンチ力はあり、この日の本塁打は3本目で

結局、8本塁打を放ち、1942年の本塁打王に輝いた。

野口投手は「名古屋で怖かったのは飯塚と吉田」と言っていたので、

油断したと思わなかったが、コントロールミスだったのか

真ん中低めをスタンドに運ばれてしまったのだ。

当時の公式記録員広瀬謙三は

「この春、随一の飛距離をもって見物席に飛び込む、

素晴らしい本塁打となって、

たちまち同点とした」と観戦記に書かれている。

 

延長戦に突入したが、

何か空気が変わったように、両軍とも淡々と攻撃が進んでいき

両投手とも6球から11球前後の投球数で打ち取っていった。

 

西沢投手は140キロ超えただろう速球に、

回を追うごとにドロップカーブ(落ちるカーブ)が決まっていった。

野口投手も勝利寸前に同点に追いつかれたことで

より一層、慎重かついつもの投球を心がけていった。

 

15回を終わって、野口投手200球、西沢投手は178球を投げたのだった。

ここまで投げて、両投手の調子はギアがかかり、また、バックの守備陣も

小さなピンチを乗り越え、ゼロ更新は続いていった。

 

延長20回に入り、それまでの記録

1942年4月12日阪急対大洋戦の延長19回を超え、ゼロが続く。

そして、25回が終わった時に

「中京対明石の延長25回戦の日本記録を破り、次の回へ進みます」という

アナウンスが後楽園球場に響いた。

 

26回表名古屋の攻撃

ツーアウトから野口正明がセカンドゴロでチェンジと思われたが

名手苅田久徳がエラー、二死一塁で西沢道夫がボールツーから

右中間へ長打!一塁ランナーの野口正明は「この試合を決める」ために

全速で二塁、三塁を回る!!大洋守備陣もここで負けるわけはいかない!

ライト浅岡三郎が、エラーをした苅田に投げる!

野口正明は三塁を回り本塁へ向かう!そこはさすが苅田久徳、

佐藤捕手のミットへストライクの送球で野口は及ばず、タッチアウトだ!!

後楽園球場はそのプレーに酔った!

 

26回が終了し、

「大リーグの延長26回の世界記録を破りました」のアナウンスが

球場内に響き、いつ終わるかわからない試合に観客は帰らない。

 

27回裏、大洋の攻撃

ツーアウトから佐藤武夫捕手が左中間二塁打!

 

いよいよ、試合が決まるか!という場面で

9番 織辺由三がセンター前ヒット。

二塁ランナー佐藤武夫は三塁ベースを回ったところで、

佐藤武夫は倒れてしまった。

膝に故障を持つ佐藤捕手は第1試合にも出場し、

ここまで36回ホームを守り限界に来ていた。

結局、佐藤はセンターからショートへボールが渡り、

サードの芳賀直一がタッチしスリーアウトチェンジ。

絶好のサヨナラチャンスを逃してしまった。

 

観客もその佐藤に非難も怒号もなく、そのプレーを称えたそうだ。

 

28回も野口投手、西沢投手が投げ、

午後6時27分、審判団が協議してゲームセットを宣告した。

 

 

当日の島秀之助主審は後日、長い28回も誤審はなかったと言い切るほど、

両投手のリズムが良く、思っていた以上に疲れを感じず、

「あの日は西沢311球、野口344球、二人合わせて655球。

途中休まないで、なお、疲れたとも、参ったとも思わなかった

なぜ、ここで打ち切ってしまうのか?と

私は本部にアピールしたくらいですから」と

発言している。

 

そして、西沢投手の見事なピッチングを絶賛していた。

 

野口二郎投手も「まだ、投げられる」と思い、

空前絶後の28回延長戦を振り返った。

 

28回を投げ切った野口二郎も西沢道夫も

野球殿堂入りしている。

 

 

 

 

 

今回の記事は

職業野球!実況中継(延長28回)

月刊ドラゴンズ1982年~1984年を参考にさせていただきました。

 

 

 

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