杉田屋守

明治41年(1908)4月15日~昭和47年(1972)5月11日

 

 

明治41年4月15日、アメリカハワイ州カウアイ島に生まれる。

7歳の時、一家はホノルルに移り、その頃にハワイに遠征していた

日本の野球チームの試合を見て感動した杉田屋は、自分でも野球を始める。

 

日本で野球をすることを夢見、また彼の将来を慮った姉の勧めもあって、

大正8年(1919)、英語学校4年11歳の時に単身日本に渡った。

山口県岩国市に住むおばの養子となり、

当時の尋常小学校4年に入学。

5年になってからは投手として活躍する。

 

大正12年(1923)岩国中学入学後は、

すぐにレギュラーとなり地方大会に出場したが、

大正13年、開校間もない柳井中学に転校し、

その年の甲子園優勝校の広島商業との地方大会での対戦で、

ピンチヒッターとして登場して同点本塁打を放ち、

14回延長で敗れたものの善戦する。

 

大正14年(1925)夏、強豪広島の広陵中を山陽大会で破って甲子園に初出場。

15年(1926)春・夏の甲子園大会にも出場し、三塁手・4番打者として活躍した。

 

昭和2年(1927)、早稲田大学予科に入学。

早慶黄金時代に「早稲田精神の権化」といわれ、バットを短く持って打つ「短打法」や、

外野への飛球を飛びこんで捕る「ダイビングキャッチ」を編み出し、

スター選手の一人に名を連ねた。

 

 

昭和8年(1933)早大商学部を卒業し、台湾鉄道局、門司鉄道局を経て、

広島鉄道局に勤務し、初代野球部監督として活躍する。

 

昭和9年(1934)ベーブ・ルースらの全米軍来日の際、

全日本軍に選出され第一打者として活躍し、

「短打法」でゴーメッツ投手から転戦中5安打を打ち

「ゴーメッツを打った男」と呼ばれた。

 

巨人軍に入団を誘われたものの、周囲の反対もあって辞退したが、

野球への思いは捨てがたく、

昭和12年(1937)プロ野球団「後楽園イーグルス」に入団し、

昭和16年(1941)「黒鷲軍」と改称した同チームの監督に就任。

昭和17年、黒鷲軍を退団。

 

 

昭和18年、巽工業・岩国製作所に入社。

戦後、昭和23年、岩国市で「杉田屋運動具店」を開業。

その後、岩国高校野球部監督を務めたり、

軟式野球・社会人野球の部外コーチとして地域野球の発展に尽力した。

また、NHK広島放送局のプロ野球解説者を務めたこともある。

 

誠実で実直な人柄で誰にでも好かれたが、

自分の信じることは信念を曲げずズバズバと言う直情型の人でもあった。

プロ野球解説も歯に衣着せぬ解説から長続きしなかったという。

 

座右の銘は「野球は宗教である。血に燃ゆる青年の宗教である。・・」

まさに野球と共に生きた人生だった。

昭和47年(1972)5月11日死去。

 

 

杉田屋 守 打撃成績

 

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