朝日軍時代の広田修三(左)
広田-坪内道則-伊勢川真澄
野球の記録の中で打撃成績を見ていくのは
シーズン中だろうが、シーズンオフだろうが楽しいものです。
その中で打撃の基本は打率の成績です。
僅差を争った首位争いもいいし、独走状態の打者に憧れたり
本塁打や打点のような積み重ねではなく、
増えたり、減ったり、数字を見ていくのは日々の変化がおもしろいです。
現在のプロ野球が1936年に始まり
2023年までのシーズンで様々なバットレースがありましたが、
記録を見ていくと、首位打者で最高打率は
1986年阪神タイガースのランディー・バース選手の.389です。
その反対、首位打者で最低打率は.286 です。
2割台の首位打者は後にも先にも1942年だけです。
1942年巨人の呉波外野手で、1943年から阪神へ移籍
呉波は呉昌征として戦後は大阪(阪神)、毎日オリオンズで
人間機関車というニックネームで活躍した台湾出身の名選手です。
毎日時代の呉昌征
1942年の記録↓
1942年は前年から始まった太平洋戦争が長期化していき
野球の道具が悪くなっていき、特にボールは史上最悪の品質だった時代のため、
打っても打っても飛ばない時代であり、その分投手の成績が上がった年でした。
そんな、ボールが飛ばない時代に呉波は.286と低打率ですが
2位は岩本義行.274、3位中島治康.261と名打者が軒並み苦しんでいた。
1942年のリーグ打率が.197では致しかたない。
規定打数に入った選手は35人。2割以上が23人。
あとの12人が1割台・・・・。
その中で最低打率者が
朝日軍の広田修三内野手兼捕手だ。
341打数42安打 打率.123
そんな打率でも105試合と全試合出場。
広田修三は名古屋金鯱軍創設時に期待の捕手として入団。
その後、大阪タイガースに移籍。捕手として期待されたが
どうも打撃が得意ではないようだ。
そして、出場機会を求めて1940(昭和15)年朝日軍に移籍
自己最高の86試合、捕手として76試合出場した。
しかし、翌年から一塁が主な守備位置になり、
打率も35試合ながら.235を打ち、いよいよ打撃向上か?と思われたが
1942(昭和17)年は一塁手として.123とあまりにも低すぎた。
この.123は規定打数、規定打席に達した選手の中では
最低打率でもある。
しかし、1942年の朝日軍は
名投手 林安夫を擁して、戦前最高位の4位を記録した。
今回、偶然広田選手の写真を発見できたので
無理やり気味に広田修三選手を紹介しました。
これからも戦前、戦中、戦後1950年代の
埋もれた選手を紹介したいお思います。
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データ協力 篠浦孝氏