4月3日は戦前の職業野球で

2年間という短い期間に

大きな記録と記憶を残した若き名投手

林安夫投手の誕生日です。

 

 

林安夫 投手 愛知県出身

(1922-1944)

 

選手歴: 朝日軍 (1942-1943)

 

プロ野球投手記録の中でも

絶対破ることが出来ないものがあると思われる中で、

最右翼がシーズン投球回数でしょう。その記録の持ち主が、

プロ野球の世界に2年しか在籍できなかった林安夫投手である。

 

 

投球回数は実に541.1回という

今なら2年半分を20歳の青年が投げたのだ。

 

林は、1941(昭和16)年の春の選抜甲子園で

一宮中学の準優勝投手として大いに注目され、

1942(昭和17)年、朝日軍に入団。

林は朝日軍監督竹内愛一に心酔し、

竹内の指導のもと、

初年度からチームのエースとして大車輪の活躍をする。

 

竹内は試合の中で林を鍛える方針で、

一球一球ベンチから

サインを出して、投球術に磨きをかけた。

その結果、春先を越え、

勝ち星もあがり夏には「独り歩きが出来るようになった」と

竹内に言わせる活躍で、チームは創設初の5位、

勝率もあと1勝で5割までの成績を残した。

 

林はチーム勝利49勝(50敗)のうち

6割5分の32勝をあげ(32勝22敗)、

防御率はリーグ1位の1.01、

先発51回(史上1位)。

完投は44,完封12は投高打低の時代でも

特筆する成績を記録した。

 

 

 

 

翌1943(昭和18)年は前年の酷使がたたり、

登板数は減ったもののそれでも、

20勝11敗、294.0回を投げて防御率は0.89(リーグ2位)を記録し、

8球団中4位、勝率.532と戦前最高勝率に大きく貢献した。

しかし、10月30日に先発3回を投げた試合を最後に召集し、

二度とマウンドに上がることはなかった。

 

林の風貌は平成時代の

高校球児のような人懐っこい感じだ。

とても、2年間で52勝もする投手のように思えない青年だ。

 

通算 52勝33敗 835.1回 239奪三振 防御率 0.87

 

 

 1944年フィリピン方面に出征したものの、

未だその消息は知れず、戦死したと思われる。

たった2年間のプロ野球生活であったが、その足跡は大きい。

 

戦争という大きな波に揉まれ、

その日、その日を野球に

捧げるしか無いような選手生活しかなかった青年。

それは当時の野球人に

共通した人生観だったかもしれないが、

戦後、無事戻ってきたら

どんな投球をしてくれたのか?と思うと残念でならない。

 

 

写真は

林投手が出兵する前に、田村駒次郎夫人に書いた

メッセージに泣ける・・・。

 

 

 

林安夫投手が在籍した朝日軍は

プロ野球草創期

大東京-ライオン-朝日軍・・・松竹ロビンスの流れの
消えた球団の名選手の一人です。

 

野球雲10号には選手列伝、監督列伝のなかで

初公開の写真とともにご紹介しています。

 

 

 

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