南村侑広(不可止)
1917年4月17日~1990年4月17日
大阪府出身 右投右打
 
旧制市岡中学を卒業後早稲田大学に進学し
東京六大学リーグで2度(1938年春季、39年春季)首位打者を獲得。
一塁、二塁、三塁を守れるマルチプレーヤーだった。
 
卒業後、三井信託銀行へ入社。
1950(昭和25)年セ・パ両リーグに分立した際、
セ・リーグの新球団西日本パイレーツの小島利男監督から
(早稲田大学の先輩)誘われ、銀行の職を捨てプロの世界へ飛び込んだ。
その時、33歳!契約金はそんなに貰っていなかったらしいが、
「とにかく、野球がやりたかった」という。
 
 
西日本パイレーツでは33歳の新人として開幕戦を一塁3番で出場、
4月26日対松竹ロビンス戦では三塁4番で出場。
安定した打撃を見せてき、終わってみれば
規定打席不足ながら、96試合11本塁打55打点、打率.300を打った。
 
しかし、混乱、対立の二リーグ分立はリーグにでも混乱を起こし
西日本パイレーツは巨人から受けた仕打ちに怒り
セ・リーグ脱退という行動でパ・リーグ西鉄クリッパースと吸収合併。
選手争奪戦が起こり、巨人か西鉄かとなったが、
経営不安の西日本は夏以降給与未払い等があり、
南村は巨人を選んだ。
 
 
1951(昭和26)年、巨人に入団。
黒バットを抱えて、6番ライトでレギュラーとして活躍
千葉茂、青田昇、川上哲治と並ぶ大打者にも引けを取らぬ
渋いバッティング優勝に貢献。
第2期黄金時代に貢献した。
 
そして、南村の野球人生のハイライトは
1951年南海との日本シリーズでの活躍だ。
 
第1戦 先制本塁打を含む3打数3安打、
第2戦も3打数3安打で、2試合で10割。
第3戦も4打数2安打で 10打数8安打の8割!
その後2試合で6打数1安打だったが、
5試合通算16打数9安打、打率.563を打ち
日本シリーズMVPに選ばれる活躍で
巨人初の日本シリーズ優勝に貢献した。
 
1952(昭和27)、1953(昭和28)年はベストナインに選ばれる活躍。
1956(昭和31)年に現役を8年、40歳で引退した。
 
短い期間だったが、戦後、二リーグ制になった
プロ野球界で代表される好打者であり、脇役にも主役にもなれる
存在感を持った選手だった。
 
しかし、1950年に西鉄と南村争奪戦をやった巨人は
1956年のオフ広岡達郎の披露宴で「契約解除」を伝える
非常な通知をした。
 

 

 

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