関根潤三

1927(昭和2)年3月15日~2020(令和2)年4月9日

東京都出身

左投左打

関根潤三さんの命日は4月9日です。

少し、遅くなりましたが、

関根潤三氏をご紹介します。

 

 

日大三中から法政大学に進学

藤田省三監督のもと、4年間エースとしてマウンドを守った。

通算41勝30敗、戦後、史上2人目の40勝を達成。

通算658回も投げまくった。

 

恩師藤田省三が近鉄パールス監督に就任することとなり、

近鉄創設の1950(昭和25)年に入団。

翌年には開幕投手として先発した。

 

近鉄パールスはパ・リーグなかでも弱小球団だったが

1953年、54年、55年と二けた勝利を挙げ

1954(昭和29)年は16勝11敗とキャリアの中で唯一勝ち越した。

この年は近鉄パールスも

74勝63敗の成績で球団創設以来初の勝ち越しをした。

(その後、1963年まで勝ち越せなかった)

 

プロ入団すぐに肩を壊したらしく、変化球に磨きをかけ

投手生活をしていたが、1957(昭和32)年から打者に転向。

投手通算成績は65勝94敗 勝率.408

防御率 3.43だった。

 

 

投手時代からシェアなバッティングで2割5分から3割以上の打率を残し

いざ、打者として再スタートしても、

首脳陣も転向するなら、クリーンナップをと最初から5番打者として期待し、

すぐの結果を出した。

 

近鉄パールスの打者たとしては小玉明利が大きく活躍していたが

関根が加入しても長打力が足りずに「ピストル打線」と言われた。

しかし、コンスタントに2割8分以上の打率を残す関根は

近鉄打線では存在感を増した。

1963(昭和38)年は初で唯一の二けた12本塁打を記録。

打点も自己最高の66打点をたたき出し、球団2度目の勝ち越しに貢献した。

 

1963(昭和38)年巨人に移籍、初めての優勝、日本シリーズ優勝も経験した。

1965(昭和40)年引退。

 

 

打者に転向し

通算1137安打、59本塁打を打った。

50勝以上1000本安打を記録したのは史上2人だけ。

(元中日 西沢道夫)

戦後デビュー選手としては唯一の記録だ。

弱い近鉄パールスではスター選手として頑張った。

 

1970年に広島でコーチに就任。

後の広島黄金時代の名打者を育てた。

 

1982(昭和57)年横浜大洋ホエールズ監督に就任。(84年まで)

1987(昭和62)年にはヤクルトスワローズ監督に就任。(89年まで)、

退団後は野球評論家として

フジテレビの「プロ野球ニュース」

ニッポン放送「ショーアップ・ナイター」の名物解説者として

長く愛された。

 

2003年野球殿堂入り。

 

筆者は十数年前に

銀座で関根潤三さんを見かけた。

待ち合わせのようだったが、

80歳には見えないピンと背筋が伸び

173センチの身長以上の背の高さに思えた。

ロングコートを着て佇んでいる姿がかっこよかった。

 

本当はお声を掛けたかったが、

江戸っ子の関根さんというイメージと銀座が

「野暮」な感じだったのが、

お声がけはしなかった。今思うと後悔しています。

 

そこに入りだけで和む解説と、

実は・・・タフなキャラクターとのギャップが

永く野球界にいられたのではないだろうか。

 

 

 

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