4月4日(1995年)は「和製ベーブ」と言われた

山下実氏の命日です。

 

 

第一神港商業(現 神戸市立神港高等学校)・

慶応大学で、「和製ベーブ・ルース」の異名をとった豪打者。

神港商業に入学した山下は、

相撲・テニス・野球などスポーツ万能で、

最初はテニス部に入部するものの、

強引に野球部にスカウトされた。

こうして、「神港・慶大と補欠の経験がない」

山下の華々しい球歴がスタートする。

 

甲子園球場が完成した大正13年、

全国中等学校優勝野球大会の対早実戦で

右翼手頭上をはるかに越す甲子園球場第1号の

大ホームランを放ち、ファンを驚かした。

 

 

神港商業で後輩だった島秀之助(後のセ・リーグ審判部長)は、

現在の甲子園球場よりずっと広かった当時の球場を見回して、

「これなら入るな」とつぶやいた山下に驚いたと語っていた。

この大ホームランで、

山下には「ベーブ山下」「怪物」のニックネームがつけられた。

 

大正14年の選抜大会でも、2ホーマーの本塁打賞、

打率6割の打撃賞、5打点の生還打賞を獲得する大活躍だった。

在学中に、神港は甲子園に春・夏合わせて5回出場し、

いつも優勝候補にあげられる強豪校だったが、

番狂わせで敗れるなど、

「甲子園のために生まれてきたような打者」と言われた山下も、

優勝には縁がなかった。

 

昭和2年、同様に甲子園を沸かせた

宮武三郎(高松商業)らとともに慶大に入学し、

黄金時代の慶大の主軸バッター、

また俊足・強肩の一塁手として活躍した。

天才バッターらしいエピソードも多く、

昭和3年秋のリーグ戦終盤の東大戦でチャンスにも

全く打てなかったことにショックを受け、

合宿を飛び出し行方不明になってしまう。

(実際は、友人宅にいたらしい。)

 

早慶戦当日にしょんぼり戻ってきていた山下を、

腰本監督はベンチに入れるものの、

練習はさせず、スタメンにも入れなかった。

しかし、両チーム無得点で迎えたチャンスにいきなり起用。

結果は、決勝打となるツーランホームラン。

まさに怪物の面目躍如だった。

 

昭和4年には、4割3分8厘で首位打者獲得。

在学中の通算成績は、

打率3割1分4厘、6本塁打、47打点であった。

卒業後は、満州倶楽部に就職し、都市対抗で活躍。

昭和6年・9年の米大リーグが来日した時には、

全日本メンバーにも選ばれた。

 

昭和11年、球団創設から阪急軍に入団し、

共に入団した宮武に次ぐ打撃第2位、

5月にプロ野球初のオーバーフェンスホームラン、

7月には初のサヨナラホームランを打ち、本塁打王も獲得した。

 

 

その後、選手兼監督も務めた。

昭和16年12月に名古屋軍に選手兼監督として入団するが、

翌年試合中に召集令状が届き応召。

マラリアで内地送還になったが、

再び応召し現役引退した。プロの実働6年で、

打率2割6分1厘・19本塁打・142打点の成績を残した。

 

山下実 通算打撃成績

 

 

 

終戦後は、岡山県津山高校野球コーチ、

神戸市の社会人野球の監督、奈良県天理高校の監督などを務めた。

30年頃には上京し、セ・リーグ審判員、野球評論なども手がけたが、

大打者として活躍した球歴からすると不遇であった。

 

 

その後は、友人と事業を興すなど野球界からは距離をおいた。

晩年は、長男家族と同居し、夫人と旅行を楽しんで穏やかな日々を送った。

 

昭和62年、特別表彰で野球殿堂入り。

平成6年、死去。享年87歳。

 

(協力:旧吉澤野球博物館・根岸氏)

 

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