1943(昭和18)年 10月16日は
「最後の早慶戦」と言われている出陣学徒壮行試合が行われた日です。


 

太平洋戦争前はプロ野球(当時は職業野球)より学生野球が人気が有り
その頂点は東京六大学野球であり、早稲田大学対慶応義塾大学の試合
いわゆる早慶戦が一番の人気だった。
1942(昭和17)年、4月18日春のリーグ戦開幕の日に突然の試合順延の報が入った。
それは米軍による初空襲があったからだ。

日本は野球どころではなくなった。
当局からの野球への弾圧、大学も繰り上げ卒業、
生徒も選手もいなくなっていく。
その影響で、東京六大学リーグ戦は1942年をもって中止になり
1943年4月7日文部省から解散命令が出た。

いよいよ、戦局は悪化し大学生も戦争に徴兵される、
「学徒出陣」命令が発令された。

慶應の野球部主将阪井盛一は
「戦場に行けば生きて帰って来れないかもしれない。
せめて最後は早稲田と試合をしたい」と思い、
部長の平井信を通じて学長の小泉信三に早慶戦開催を申し出た。

小泉学長は「学生のためのはなむけとして・・・」と快諾、
早稲田の野球部顧問飛田穂州を訪れ、神宮球場での開催を申し入れた。
早稲田はその申し出に大いに喜び開催のために動いた。

しかし、早稲田大学が政府、軍部を刺激したくない思いが強く、
開催の許可を出さない。
12月の学徒出陣が迫って来る中、早稲田大学当局は許可を出さない。
慶應義塾大学側は「明治神宮球場でなくても三田、安部球場でも良い」と
早稲田側に気を使ったが、時間はもうない。

早稲田野球部は大学当局の反対を押し切り「決行」を決断。
10月16日 早稲田安部球場で開催することとなったが、
試合当日まで大学側と激しいやりとりはあったそうだ。
慶應野球部は半ば諦めていたので、急遽部員を呼び戻した。

前日に早稲田野球部は軽い練習をしたあと、
安部球場を一生懸命掃除した。
特に三塁側スタンドは慶應関係者に気持ちよく観戦してもらおうと
選手一体となり掃除に励んだ。

10月16日は快晴だった。
新聞で開催を知った人も含めて、戦時下の野球を楽しんだ。
慶應は小泉学長以下職員も多数駆けつけ、
小泉学長は「私は学生と一緒に観ます。」と言ってスタンドで観戦した。

一方早稲田側は軍部、文部省との関係悪化を懸念して
関係者が少なく、飛田穂州は肩を落とした。
しかし、中村宗雄教授は「何かあったら、自分が引き受ける」からと
一塁側スタンドで応援していた。

両軍が登場、記念撮影、両校校歌を歌い13時から試合が始まった。

試合は早稲田が10対1で勝ったが、
この試合は勝敗は問題でなく、当時の世相を考えると
軍部や文部省、そして大学側にも妨害されながらも
「これで野球はできなくなる。」という覚悟で開催されたことが
今でも映画や物語として語られてるように感動的なのだ。

この試合の5日後の10月21日
激しい雨の中、学徒出陣壮行式典が行われ、
多くの学生が戦地に向かった。

そして、この試合に出た選手で
早稲田大学の近藤清、吉江一行、永谷利幸、壺井重治、桜内一の
5人が戦争で命を落とした。

生き残った選手の中には
慶應の別当薫、大島信雄、早稲田の笠原和夫など
戦後プロ野球で活躍した選手もいる。



 

 

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