荒巻 淳 

1926年2月16日~1971年5月12日

大分県生まれ、投手、左投げ左打ち

 

 

 

大分経専時代の1946年全国専門学校大会に出場エースとして大活躍をし

 

1試合23奪三振を記録するなど、九州地方で頭角を現し、

地元の社会人野球の名門「別府星野組」に入り、

1949年の都市対抗野球で見事優勝。

大会優秀選手に贈られる「橋戸賞」を受賞しました。

 

1950年創設のパリーグ「毎日オリオンズ」に西本幸雄と共に入団。

 

いきなり、エースとして大車輪の活躍をし、その年

48試合に登板、26勝8敗

274.2回 奪三振 150 防御率 2.06 で

最多勝、防御率1位そしてパリーグ初代新人王に輝きました。

 

酷使のため、51年 10勝8敗 2.42⑥ 、52年 7勝6敗 1.86(規定投球回未満)と

不調に終わりました。(といっても今のレベルから言えば良い成績ですが・・。)

しかし、53年から変化球に磨きをかけ復活、7年連続15勝以上の記録を残し

1961年のオフ阪急に移籍、翌年62年に引退しました。

 

荒巻投手はあまりにもすごい剛速球で

地面すれすれのボールを打者が見逃したところ

ホップしてストライクゾーンに入ったという伝説もあり、

大リーグ(あえてこの表現)の剛速球投手、266勝をした「ボブ・フェラー」が

『火の玉投手』といわれていたことから、『和製火の玉投手』として

今でも、『火の玉投手 荒巻 淳』として記憶に残る選手なのです。

 

毎日オリオンズに入団し背番号は退団するまで 「11」 を背負い

エースとして君臨しました。


別当薫と荒巻淳

 

荒巻投手の記録を見ると、生涯登板数508試合のうち

先発169 そのうち完投が85なのですが

交代完了が229と半分近くがリリーフとして

登板、最後まで投げきっています。

 

50年以上前のエースは

先発、リリーフの両刀遣いは当たり前ですが

どちらかというと、先発投手が3回から4回を投げ、

勝てそうな試合をリリーフとして登板、という

昔のエースのパターンのようです。

しかし、湯浅禎夫監督の投手起用のテクニックとして

荒巻投手をこのような使い方をしたことも考えられます。

(この辺は推理してみると面白いかもしれません)

 

13年で173勝107敗、

 

勝率 .618は歴代13位の記録で、

負けない投手なのがわかります。

 

細身の体からズバッと投げ込むというもので

眼鏡をかけたやさしい風貌とのアンバランスが

人気を呼んだようです。

 

1950年デビューのシーズンは打高投低の時代で投手受難の中

防御率は2.06 2位との差が0.34もあり、

(2点台投手が4人のみでリーグ全体の防御率は3.78)

勝率も26勝8敗 .765の安定度、速球投手ありがちの四死球も

274.2回を投げて55個の少なさにバランスの良さを感じさせます。

 

そして、初代パリーグ優勝、日本シリーズも4勝2敗で

 

松竹ロビンスを下し、見事日本一に輝き歴史に名を刻みました。
(しかし、日本シリーズでは0勝1敗)

引退後、ヤクルトのコーチとして現場復帰したものの

1971年5月12日、病魔のため残念ながらこの世を去りました。

人柄もよく、多くの人たちに好かれた名選手そして名コーチでした。

 

通算成績以上に当時のファンにインパクトを与えた選手として

1985年競技者表彰で殿堂入りしました。

 

 

 

 

 

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2019年3月に発表した記事をアレンジしました。