◎近畿日本鉄道 


①地域:大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県 

②主な行先:大阪難波~近鉄名古屋・賢島、京都~近鉄奈良ほか 

③営業距離:582・3㎞

 


近畿日本鉄道(近鉄)は民営鉄道(私鉄)では総営業距離が日本一。

複数の 鉄道会社が合併して誕生、

名古屋、伊勢志摩、京都、奈良、 大阪といった大都市や観光地を縦横に結んでいる。  

私鉄としては長距離輸送にたけている理由の一つに、

日本 一の有料特急網の充実があげられる。

2階建の特急電車(ビスタカー)、都市間輸送のアーバンライナー、

観光特急( 伊勢志摩ライナー)等バラエティーに富んだ列車が人気だ。 

 

そんな近鉄は1950(昭和25)年にパ・リーグに加盟。 

伊勢志摩の名産の真珠をニックネームに

近鉄パールスとして船出する。

当時のプロ野球では過剰な選 手の引き抜きが問題になり、

セ・リーグ、パ・リーグの仲は 険悪だった時代、

それは血で血を洗う引き抜き合戦だった。 

そんな事をよそ に近鉄は球団名の パールス(真珠) のようにおとなし く、

淡々と静かに チームを作りあげ ていった。

当時は試合運びも淡々とし たイメージである。

 

武智投手と関根潤三投手(前側)

1950年からの4年間は最下位。

1958(昭和 33 )年には 29 勝97 敗、勝率.238とパ・リーグ最弱勝率を記録する。 

雑誌「野球界」にはあまりの弱さに球団消滅危機の記事も出たほどだった。

 

1958(昭和33)年、巨人の猛牛・千葉茂を監督に招聘した。

パールスからバッファローにチーム名を変えるものの、 

1961(昭和36 )年敗戦数が 36 勝103敗、

勝率 .259とプロ野球史上唯一 の100敗超えを記録する。

 

千葉監督は巨人の常勝野球を導入しようとしたが、

千葉についてきた巨人軍の選手と近鉄に元からいた選手たちとの対立。

そして、野球に対する考えの相違があったようだ。

しかし、負け過ぎである。

結局、この年で千葉茂は退団した。

 

 

その後も低迷が続き、別当薫監督、三原修監督でも優勝はできなかった。

1960年代は長打を打つ選手が少なく、当時の近鉄打線に対して

「ピストル打線」と言われた。

1974(昭和49)年、阪急黄金時代を作った西本幸雄が監督となり、

1979(昭和54)年には 悲願の初優勝。翌年も優勝したが、

広島東洋カープに敗れ日本シリーズは制覇できなかった。

 

その後も仰木彬監督、梨田昌孝監督時代もリーグ優勝は達成したものの

日本一に はなれず、2004年、突如オリックスとの合併で球団が 消滅した。

 

 

 

日本一の私鉄の近鉄は日本一になれないままに

残念ながら、プロ野球ビジネスから退場した。

それも、プロ野球の歴史の中で、良い結果の出ない

合併という形で退場せざる得なかった。

近鉄球団は最弱球団としての記録と、

個性的な選手が打ちまくった記憶とともに

バファローズというニックネームを残し消えていった。

 

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データ協力篠浦 孝氏