杉山 悟

1926年1月1日~2009年3月29日

愛知県豊田市出身。外野手

右投右打

 

愛知県岡崎中学では近藤貞雄投手とバッテリーを組んだこともあり、

戦後、岡崎中学野球部の手伝いをし、

ゆたか産業軟式野球チームに加入した。

そこで、大きな打球を飛ばす打者がいる話を

当時、中日の杉浦清監督が直接見て獲得した。

 

180センチを超える長身で、西沢道夫と共に

中日選手は大きい!というイメージも作った。

西沢道夫はぶんちゃん、杉山はデカちゃんとの愛称で親しまれた。

そして、杉山は西沢を打撃の師匠とした。

 

1948(昭和23)年に中日ドラゴンズに入団後、

規定打席不足ながら11本塁打を打ち、強打のうわさは本当だった。

しかし、三振も多く86三振はリーグ1位だった。

ストレートには強かったがカーブは苦手だったようだ。

1949年は33本塁打を打ち、時代は杉山に向いたと思われたが、

根がまじめな杉山はフォームが崩れると悩み、

それがスパイラルになり、スランプは長引いた。

しかし、数字を見ると、打率も本塁打も悪くはないのは

やはり才能と努力の結果だろう。

 

1952年はその努力が報われ、

27本塁打を放ち本塁打王になった。

この年は西沢が首位打者、打点王を獲得と中日勢で打撃三冠を占めたが

120試合制の中で、杉山は99試合と21試合欠場しながらの本塁打王だった。

 

1954(昭和29)年の中日初優勝でも91打点で打点王。

28本塁打はリーグ2位の活躍で大いに貢献した。

しかし、西鉄ライオンズとの日本シリーズで

島原投手から頭にデッドボールを受け、途中試合出場ならず、

中日打線の爆発力は減ってしまった。

そして、死球の影響や故障によって、積極的な打撃ができなくなり、

その後は精彩を欠いてしまった。

 

1959年に国鉄に移籍、1960年に近鉄に移籍後引退した。

 

戦後の中日ドラゴンズを西沢道夫と共に打撃陣をけん引した

忘れてはいけないスラッガーのひとりです。

 

 

 

 

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