今、日本中でお笑いが蔓延しています。
不景気な世の中を笑いでぶっ飛ばせ!という感じなのでしょうか?
そのお笑いの中心にあるのが、吉本興業なのは皆さんご存知でしょう。

吉本興業は大阪の興行会社。
明治から100年以上お笑い産業の先頭を走ってきたお笑いの名門会社です。
その、吉本興業から1930年に入社した横山エンタツが花菱アチャコとコンビを組み
今の漫才を確立したふたりが、1934年(昭和9年)6月10日にラジオで
漫才革命を起こした「早慶戦」というネタを初披露しました。

プロ野球前夜の1934年に当時の野球界の最高峰にある
六大学野球の頂点早慶戦をネタに漫才の面白さを広めました。
私も漫才が好きなので、残っている音源を聞いてみると
野球史好きとしては、「選手名が出てくるかもしれない」と思い
CD化されている音源を購入して、じっくり聞いてみた。

その中でわかった人名は
慶応のバッテリー  岸本正治-三宅?
早稲田のバッテリー 若原正蔵-三浦?

二塁走者 山下実 もしくは 山下好一

その中で両山下はプロの世界に入ったので比較的どんな選手だったのか
調べやすいのですが、早慶の両バッテリーのプロフィールがあまり知られていないようですが
早稲田の「若原正蔵」投手は以前、船橋にある吉澤野球博物館の資料に
若原氏の肉声テープが残っていたので、一部教えていただきました。

吉澤博物館の資料から引用

幕張湾岸野球部- 野球は一生の楽しみ-若原投手


若原氏は昭和8~12年(1933~1937)にかけて、早稲田の名投手として活躍。
特に、10年(1935)秋・11年秋の早大の優勝に大きく貢献した。
11年春の米国遠征の時、エール大学相手にノーヒットノーランを達成し、
ニューヨークタイムス紙のトップで取り上げられた。

コントロールが良く、切れのあるカーブを武器に頭脳派のピッチングをした。
通算成績は、38勝19敗。早慶戦に数多く登板し、9勝をあげている。
この頃、層の薄かった早大投手陣の中で孤軍奮闘する姿は、
華奢な体格・知的な風貌と相まって、人気抜群であった。


(インタビューより)岩本(義行)、ああいう人は、僕に言わせれば“カモ”なんですよ。

まあ孤軍奮闘のような。勝っても負けても、僕が出ていくというような形になって。
僕は、見た目もコントロールが良かった。それは自信があったから。
打たして獲る。岩本(義行)、明治のね、ああいう人を牛耳る。
ああいう人は、僕に言わせれば“カモ”なんですよ。
だから、小さく、チョコ、チョコンと打ってくるような立教タイプ、
あるいは慶應の川瀬(進)とか、ああいう大物打たない人は苦手でしたね。


【引用終り】

これだけ、早慶戦を中心に活躍した投手だったからこそ、
エンタツアチャコの漫才にも使われたのでしょう。
当時、かなり人気があったにもかかわらず、プロ野球中心の時代では
どうしても歴史の中に埋もれてしまうようです。
そんな名選手たちを掘り起こせればいいな、と思っています

 

 

 

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