個人的で申し訳ないですが、
一番好きな選手が中日ドラゴンズの谷沢健一選手でした。

何しろ、引っ張っても、流しても
フォロースローが美しく、長打も打てるのが頼もしかった。




早稲田大学時代から史上屈指の左打者として
1969年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。
1970年に新人王を受賞。

中日の中軸打者として、1974年20年ぶりのセ・リーグ優勝時の
主力選手としても活躍した。

1972年から1975年まで2割9分台を打ちながら
もう少しで3割に到達しない谷沢は、ある時巨人の王貞治と食事をした。
「どうしたら、3割を打てるようになるでしょうか?」と聞いたところ、
「3割を狙うのでなく、3割5分を目指さないと3割は打てない」と言われ、
目標を高く持つことを意識し、背番号を「14」から「41」(良い番号)に変え、
気持ちが吹っ切れたのか?1976年は打ちまくった。

 




この年、日本ハムから巨人に移籍した安打製造機張本 勲が
王貞治、若松勉(ヤクルト)、J.ホプキンス(広島)と谷沢が加わり
3割6分代で首位打者を争っていた。

夏を過ぎ、張本と若松が首位を争い9月末現在、

張本 461打数 163安打 .35357
若松 434打数 153安打 .35253
谷沢 448打数 151安打 .33705

残りの試合で張本を抜くには、5割以上を打たなければならず、
普通に考えれば奇跡、張本と若松の争いだと誰もが思ったが、
谷沢はその奇跡をやっていくのだ。

10月1日から10月21日まで張本は52打数19安打 .365と普通にすごかったが、
谷沢は48打数25安打 .521 と超人的打率で打ちまくり、
.3548で張本の.3547を1毛差で抜いたが、
四捨五入だったので、細かく見れば.35483対.35477と6糸差とミクロな戦いだった。

この記録が史上僅差の首位打者に谷沢はなった。
一方張本は小鶴誠が1950年に記録した打率を
1毛差で抜いて史上最高の2位打率者となった。

 

1976年セ・リーグ打撃成績(NPBホームページ引用)

 



張本は翌年1977年も首位打者争いをしたが、1976年の3位若松に
首位打者を取られ、史上二人目のセパ両リーグ首位打者の栄冠はならなかった。

谷沢は1978年アキレス腱痛で、野球生命を絶たれるかと思われたが
1980年奇跡のカムバックで.369の高打率で2度目の首位打者を獲得。
その後は本塁打も増え、4番としても活躍、2000本安打も達成した。

張本、若松、谷沢と2000本安打超えをした打者たちの
首位打者争いは今思っても豪華な争いだった。

谷沢が首位打者が決まったヒットを打った瞬間バンザイをしながら
一塁に駆け込んだ姿は今も記憶に残っている。

 

谷沢健一選手の全記録↓

 

1970年谷沢健一さんがセ・リーグで新人王に選出されましたが

結構危ないところでした。しかし、新人王獲得。

才能も運も持っていたようです。

 

 

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