中根 之(なかね すすむ)
兵庫県出身 外野手
(1910年9月21日~没年不明)
中根之外野手は
現在のNPB最初の首位打者です。
しかし、栄えある初代首位打者の称号がありながら
栄光なきレジェンドと言っていいほどの知名度だ。
1934(昭和9)年11月4日、コニーマック監督率いる全米選抜チームが神宮球場で
第1戦が行われ、それ以降圧倒的な強さで日本チームを看破したが、
ベーブルースを始めスター選手が参加していたため、
日本中が日米野球に湧き、プロ野球発足の機運が生まれた。
そして、1936(昭和11)年7球団で今のNPBが始まった。
その中の球団に現在の中日ドラゴンズの前進「名古屋軍」に入団したのが
中根 之選手だ。(名前が読みにくいのですが「すすむ」と読む)
1936(昭和11)年秋季戦から本格的に職業野球は始まったが、
まだ、小さな大会をやりながらのリーグ戦で、
世の中に職業野球を紹介していくようなシーズンだった。
中根之選手は神戸の第一神港商業で野球をやり
第6回選抜中等学校野球大会(1929、昭和4年)に出場、優勝した。
1936(昭和11)年に名古屋軍に入団ライトを守り、2番を打った。
そして、1936(昭和11)年秋のシーズンで
打率.376の高率で首位打者を獲得。
現在でもプロ野球の高打率9位の位置にいる。
試合数が少ないのもあるが本塁打0本で首位打者を獲得した選手は
1936年秋の中根 之、1944(昭和19)年の岡村俊昭、
1987(昭和62年)年正田耕三の3人。
中根之は戦前初、岡村俊昭は戦前最後の首位打者でもある。
1937(昭和12)年イーグルスに移籍したあと、
1938(昭和13)年に引退。実質3年の現役生活だった。
戦後はパ・リーグの審判員と活躍したが、
1963(昭和38)年8月7日神宮球場での東映-近鉄戦7回表一死後
近鉄のブルーム選手が一塁側にドラッグバントをし、クロスプレーで
難しい判定だったが、中根塁審はアウトの判定。
これに不服のブルームは中根塁審に抗議をし、ベンチに戻りかけ
一言中根塁審に声をかけた途端退場を言い渡し、近鉄側から猛抗議。
放棄試合を匂わえるような不穏な空気になった。
その後、ブルームは退場を宣告されたにも関わらず
ベンチに残り中根塁審を野次り続けた。
中根塁審はこの試合の後、ファンからの脅迫状を受け、休養し
そのまま、審判を辞任してしまった。
その後の足取りは不明な点も多く、没年がわからないのも残念なことだ。
忘れられた野球人のひとりでもある。
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