ニューヨーク・ヤンキースは1939年にルー・ゲーリッグが引退し、
それまで4連覇していた(1936-1939)もののついに1940年に陥落し、
1941年のシーズンも、5割丁度の勝敗で、黄金時代は終わったのか?と
思わせるような低空飛行だった。
ゲーリッグのあと、ヤンキースの大砲として活躍していた
ジョー・ディマジオは6年目の1941年5月14日、
クリーブランド・インディアンズのメル・ハーダー投手に
抑えられ、3打数0安打だった。
しかし、翌日、1941年5月15日
シカゴホワイトソックスのサウスポーエドガー・スミス投手からヒットを打った。
その日は、その1本だけの4打数1安打だったが、
それが「56試合連続安打」の始まりだった。
5月16日から着実にヒットを積み重ね、
6月14日に25試合連続安打を打った頃から
ファンから注目され始めた。
ディマジオ自身も当時ナショナル・リーグの記録
33試合連続安打(ロジャース・ホンズビーの記録)を超え始めてから
意識しはしめたそうだ。
6月29日はジョージ・シスラーが持っていた42試合連続安打を更新、
7月2日にはウイリー・キーラーが1897年に作った44試合連続安打を更新し、
前人未到の記録を作ったが、ディマジオは止まらなかった。
50試合、51試合、52試合と連続安打は止まらなかった。
しかし、ファンは「いつ止まるのだろう?」という興味も増えてきた。
1941年7月16日クリーブランド・インディアンズ戦で3本のヒットを放ち、
56試合連続安打を達成した。
翌、7月17日はインディアンズのホーム球場には67,468人の観衆が集まり、
大観衆は次の1試合を見るためにディマジオの打席に注目した。
インディアンズの投手はアル・スミス投手
サウスポー、スミス投手は1回は四球で歩かせだが、2打席は見事討ち取り、
4打席目はジム・バクビー投手がディマジオと対決した。
8回表、それまで無安打だったディマジオは
1死満塁のチャンスに登場、観衆は「これが最後のチャンスかもしれない」」と
思いながら見守った。
1-1のカウントでディマジオは三遊間にゴロを打ったが、
名手ルー・ブードロー遊撃手が見事キャッチ、6-4-3と渡り
ダブルプレーを完成。
ここで、ジョー・ディマジオの長い旅が終わった。
連続安打の始まる前にインディアンズの投手陣に抑えられ、
終わらせたのもインディアンズの投手陣だった。
56試合連続安打は1941年5月16日から7月17日の77日間
223打数91安打56得点15本塁打55打点 打率.408 OPS 1.210を記録し
ヤンキースも41勝13敗2分 .759の勝率を残し、
ディマジオとともに上昇し続け、2年ぶりの優勝を飾った。
ジョー・ディマジオは結果シーズン打率.357を打ったが、
レッドソックスのテッド・ウイリアムズが打率.406という
神ががりな打率で首位打者は取れなかったが、
ディマジオは初の打点王(125打点)を獲得した。
この記録は未だ破られていなく、
ディマジオはこの試合を無安打で終わったが、
翌日から16試合連続安打を放った。
もし、この日1安打でも打っていたら73試合まで伸びていたかもしれない。
1951年に来日したディマジオ(左端)
ちなみに日本記録は
1979年広島東洋カープの高橋慶彦内野手の33試合連続安打。
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