記録から見る、悲願の松竹ロビンス優勝。

 

 

1936(昭和11)年大東京軍として日本野球連盟に加入して、

戦争で中断をはさみながら、

セ・パ両リーグに分立後の1950(昭和25)年

セントラル・リーグ初代優勝チームとして、

結成以来15年目に悲願の優勝をした松竹ロビンス。

 

1950年セントラルリーグ 勝敗表

(NPBサイト引用)
 

勝率.737は今もセントラル・リーグ一位の記録である。

リーグ分立の混乱の中、小鶴誠、大岡虎雄、金山治郎。

三村勲の強力メンバーが加入し、前年入団した岩本義行を4番に据え、

水爆打線のネーミング通りの破壊力と

タフネス・エース真田重蔵を中心とした投手陣は、

記録から見てどのようなものだったのか?記録から検証していきます。

 

1950年セントラルリーグ 打撃成績

(NPBサイト引用)

 

まず、以下の要点から松竹ロビンスの強さを見てみよう。

 

・小鶴・岩本を代表とするチームダントツの本塁打数 179本
 

 2位ドラゴンズ 144 35本の大差

 3番 小鶴 51本塁打、4 番 岩本39本、5番大岡 34本と3人で124本塁打。

 三村が16本、91試合の吉田が13本。投手の江田まで5本を打つ強打で、

本塁打数最少の国鉄66本塁打との差は113本塁打。

大洋が111本でプラスしてもかなわない。

 

・強打のあいだにある機動力~金山らのチーム盗塁数は223個 

 

2位ジャイアンツ212とは10個の差であるが、

1番打者の金山が74個で盗塁王を獲得しているが、そこの差ではない。

3番の小鶴が28盗塁、4番岩本が34盗塁しているのが大きい。

巨人の4番川上も34盗塁しているが6本塁打。

3番青田が33本塁打29盗塁と岩本と近い数字を出しているが、

下位打線を打つ捕手荒川が25盗塁と全体的機動力があり、

脇役の選手が機動力を発揮し塁を賑わせ、お膳立てを作った。

そして、3.4.5番がその期待に答えるように玉突きのように打ちまくり、

小鶴161打点、岩本127打点、大岡109打点の100打点トリオが形成されていた。

 

走れない大岡、吉田重ね固めて下位打線の荒川から岩本まで走る軍団化している。

併殺を怖がらない積極性は自軍の強力打線を信頼していたのだろう。

また、三振数はリーグ一位と豪快なイメージがある反面、

木村勉のように392打席で10三振というしぶとい打者がいたことも見逃せない。

 

・併殺は少ないが失策も少ない手堅い守備~守備率2位 .971

  1位ドラゴンズの守備率が.972

  内野陣の併殺が少ないが、守備率がリーグ2位ということを考えると、

  確実に1つずつアウトを取り強力打線の爆発を待つような姿勢に感じる。

  併殺崩れやエラーによる大崩れを避ける考え方があったのだろう。

 

・バッテリーエラーが少なく、守備陣の守りやすさの演出 

 

死球(13)+暴投(4)+ボーク(1)+捕逸(2)の守備の堅さ。

捕逸2個という、変化球の少ない時代とはいえ、

荒川捕手の守備の上手さと四球を出さない投手のコントロールの安定感が

守備に定評のある2位ジャイアンツの26に比べて少ないのが驚きだ。

松竹という豪快なイメージからは守備が優勝の基礎にもなっている。

 

・攻めは大胆、守りは手堅い~オールラウンドな強さ 

 注目するところは2番をよく打った三村の犠打が「0」いう数字だ。

 チーム全体で犠打25はリーグ最少で、最多の巨人60と比べて半分以下の数字だ。

 6位の西日本パイレーツが27犠打という事で、

 犠打の数と攻撃力に大きな違いを見いだせないが、

 水爆打線の破壊力の前には、犠打はそれほど効果がなかったと言えるだろう。

 犠打が少ない代わりに積極的に盗塁を実行し、

  強力打線の破壊力にかけたと思える。

 

以上が数字から、松竹ロビンスのチーム力の高さが確認できる。

 

小西監督は当時の雑誌の対談で「優勝はするけれども、

目の前の一戦一戦を無になって勝つ」というように、

細かい野球をするより、各選手の技術を信じて、

野手は岩本、大岡のベテランを中心に小鶴を打線の核に動かしていき、

金山、宮崎、荒川等の名脇役たちの成長を楽しんでいる。

投手は大エース真田を先発、リリーフと中心に、

江田の復活、大島の使い勝手の良さを勝利の要因と考えていた。

 

夏場には中日、巨人より実力は上だという事を岩本、小鶴と発言している。

しかし、その通りに最後まで松竹は勝ち続けた。

 

松竹ロビンスは、シーズン前の予想を裏切る、

圧倒的な力で中日、巨人を倒し、初代セ・リーグ覇者となった。

しかし、日本シリーズ前に真田投手と小鶴外野手との評価を巡って、

少しずつチームワークが崩れ始め、

真田、小鶴の怪我もあり、パ・リーグの覇者毎日オリオンズに2勝4敗で破れ、

その敗戦から小西監督は辞任、給与の問題などから優勝メンバーは離散していき、

2年後の1952(昭和27)年に最下位となり、大洋ホエールズと合併。

初代セ・リーグ覇者松竹ロビンスはプロ野球から退場した。

 

1950年松竹ロビンス打撃成績

 

1950年松竹ロビンス投手成績

 

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