1988年野球殿堂特別表彰に永田雅一氏が選出された。

 

 

早かったのか?遅かったのか?

しかし、パ・リーグ初代総裁となり、東京スタジアムを建設し

長い間、プロ野球界運営にいた人物としては

やっと野球殿堂入りしたという感想だ。

 

野球選手に個性が無くなった。」という話が
いつの時代にも出てくるが、
それは個性という価値観が、時代とともに変わっているからだと思う。
それでも、時代を超えた個性を持った人物はいた。
 

1934年にベーブルースが来日して85年となる。、
それをきっかけに現在のプロ野球ができた。
黎明期に球団を持つ企業は、挑戦者のように思えるが,
今よりオーナーの権力が強かったから、会社同士の意地も
あってプロ野球に参戦したとも考えられる。

そんな、プロ野球のオーナー列伝のセンターは
なんといっても「永田雅一」ではないだろうか?

大映映画の創設に関わり、1947年社長に就任後
戦後の映画全盛時にプロ野球に参画した。
大映スターズから始まり、自らパ・リーグのために
合併や新球団創設などを繰り返した。

ワンマンという言葉は彼のためにあるくらいの専制政治で、
映画、球団を引っ張っていった。
そして、パ・リーグ会長にまで登りつめ、
パ・リーグ人気のために球界再編や勝率の悪いチームには罰金等の
システムを作り、最後はロッテオリオンズの社長だったが、
本業の大映がテレビブームに乗り遅れ、坂を転がるように経営不振となり
1971年に球界を去った。

1970年に優勝したときは、ファンが球場になだれ込み
一番最初に胴上げをされ、号泣していた。


(千葉ロッテマリーンズ球団50年史より)


巨人に対しては終生ライバル意識が強く、
東京球場で巨人が公式戦をやることを断っていたと言われている。

1959年の歴史的天覧試合では毎日-西鉄の試合も検討されていたが
結局は巨人-阪神戦とセ・リーグに譲り、天皇陛下への説明を
パ・リーグ中澤会長が受け持つことで折り合いをつけたらしいが、
そのことを永田はずっと意地として持っていたのかもしれない。

今も永田雅一の評価は功罪の振り幅多く、評価も分かれている。
しかし、当時にはプロ野球という世界には必要だった個性だったと思う。

今日は永田雅一の命日です。(1985年)
 

10月7日 永田雅一 涙の胴上げ!(1970年ロッテオリオンズ優勝)

 

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