杉山 光平 

静岡県静岡市出身

1927(昭和2)年8月7日~

左投左打 一塁手、外野手

 

 

静岡商業から静岡師範ではテニスをしていたアスリートだったが

専修大学に入学してから野球は始めた器用であり天賦の才能があった。

 

近鉄パールスの藤田省三監督からの熱心な誘いから1952(昭和27)年入団。

しかし、藤田監督の後に芥田武夫監督になると

杉山と芥田監督との打撃論で話が合わず、キャンプの途中で帰宅してしまった。

 

1年目、2年目と地道に出場試合が増えたが、3年目が8試合と減ったのは

監督との確執が大きかった。

 

しかし、南海ホークスの鶴岡監督が

杉山の才能を認めていたため、獲得に動いたが

南海とのトレードに難色気味だった近鉄はトンボ ユニオンズにトレードをし、

トンボ ユニオンズから南海に三角トレードの形で移籍した。

 

1955年1月21日の報知新聞には

近鉄⇒トンボ⇒南海の三角トレードと記載があり、

高橋(トンボ)球団の選手契約書封筒には「杉山光平」の記載があるが、

パ・リーグの公式記録では近鉄から南海との移籍となっている。

 

この辺の事情はトンボユニオンズがマネーローダリングのように利用され

当時の球団同士のパワーバランスも見えてくる。

 

1955年南海に移籍し、一塁手としてレギュラーとなり、打率.278で初のベストナイン

1959年には外野手として154試合フル出場、12本塁打、93打点で2年連続ベストナイン。

だ率.303で初の3割を達成。

その後、南海の3番打者として4番野村克也の前を打ち、

チャンスに強く、確実な打撃で強い南海でクリーンナップを打った。

 

杉山光平はバットのヘッドを下にたらし、ゴルフの形から

投手のモーションに合わせてグリップを上げて、

さらに体を揺らしてタイミングをとる姿から

時代劇「眠狂四郎」から「円月打法」と言われ人気を得た。

 

1959(昭和34)年は大毎オリオンズの主砲山内和弘との

マッチレースを制し

115試合、418打数、135安打、9本塁打、67打点 打率.323で

首位打者を獲得した。

この年は南海ホークスが大エース杉浦忠投手を擁し悲願の日本シリーズを制覇。

日本シリーズでも優秀賞を獲得。4度目のベストナインも獲得した。

 

1961年まで南海で、1962年1963年で阪急と長くレギュラーとして活躍し

1965年南海に戻ったが、成績は下降し、1966年を最後に引退した。

 

1959年の南海打線は400フィート打線と呼ばれ、

それまでのシェアな打撃と盗塁をしまくり、100万ドルの内野陣の

堅い守りで勝っていた野球から、西鉄に代表するような

長打を強化し、野村克也とともに杉山光平は象徴的打者でもあった。

1950年代を代表する巧打者のひとりである。

 

左から杉山、森下、岡本、野村

 

 

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