5月23日は

天才打者大下弘の命日です。

戦後、神に選ばれた野球選手『大下弘』を考える

 

 

 

昭和20年 8月15日、日本は戦争に負けた。

私の父は戦中派だ。愛媛の片田舎で育った。

毎日、大本営放送があったが、

その日は正午に「今日は玉音放送があるから・・」という事で近くの役場に行った。

大人たちは土下座をしながら泣いていたのを子供たちは見ていた。

しかし、数日後、村の人たちは『戦争が終わった』ことを

大いに喜んでいたのを強烈に覚えていて不思議に思ったらしい。

 

子供達はすぐに三角ベースをやりだしたのが、

敵国競技の野球から少年達の戦後が始まった。

そして、そんな愛媛にも『大下弘』の名前は伝わっていた。

 

時代を背負う人というのは、

突然宇宙からやってきたような印象をあたえる。

戦争が終わって、全ての日本人が虚脱感を覚えていた頃、

突然彼がやってきたのだ。

 

大下弘は戦後初のスターだ。評論家の大和球士が

「終戦後において、人々のすさんだ心をなぐさめるスターがふたり誕生した。

一人は東西対抗戦が生んだ英雄大下弘であり、

ひとりは少女歌手美空ひばりであったろう」といった。

 

名将三原脩は「プロ野球から打者を5人選ぶとすれば、

王、大下、川上、中西、長嶋

3人にしぼるとすれば大下、中西、長嶋。

1人選ぶとすれば大下である」といった。

 

大下弘のデビューは戦後の暗い世相の中で、

突然現れた新世界の人間のように記憶されたのだろうか?

昭和20年11月21日のプロ野球復活の東西対抗戦で東軍の5番打者として登場。

神宮球場の右中間に三塁打を打ち、

両ベンチは『大下弘』の凄さを実感したという。

翌年の昭和21年にセネターズから本格デビュー、

東西対抗は神宮球場、桐生新川球場、西宮球場で4試合行われ

大下は4試合で15打数8安打12打点5割3分3厘。

二塁打2、三塁打、本塁打を各1本を放った。

 

東西対抗戦は、「生きて帰れて、野球が出来る。」というだけの気持ちの

職業野球の選手達のなかに大下は参加した。

 

 

プロ野球史再発掘のなかで

 

鶴岡一人、鈴木龍二そして千葉茂が語った。

鶴岡「僕らも戦争によって、ふつうなら死んどるわけや。

  それが生きて帰れて、野球がやれるということで、

   ものすごいうれしかったんや。・・・」

千葉「ともかく、ゲームをやった」

鶴岡「やった、やった。そこへ出たのが大下弘だ」

鈴木「そうそう」

千葉「大下をはじめて見た」

鶴岡「それでガボガボ打ちおった。あいつ天才やと思ったな。

   それにスマートだし男前だし・・・、

   打つほうでは大下にカンカン打たれて・・・」

 

別所毅彦も東西対抗戦の思い出として

 

「一番印象に残っているのが大下君ですよ。

途中からピンチヒッターで出てきたんですが、

あの時確か東軍がファースト側で、

西軍がサード側のベンチだったんです。

その東軍のベンチの横のスタンドで、

学生服をユニフォームに着替えておるヤツがいる。

ロッカーなんてなくて、スタンドで着替えていたんです。

 

その、ユニフォームを着替えたヤツが、

 

ポーンとスタンドからグランドに飛び降りて、

柔軟体操みたいなのを自分でやって、キャッチボールちょっとやって、

それから軽くトス・バッティングをベンチ前でやっている。
 

これが、ピンチヒッターで出てきて、

いきなり私の初球を、右中間にツーベース打った。

えらいヤツがおるなってわけですよ。

まあ、こっちも練習していないけど、向こうも何もしていないのに、

いきなり二塁打ですからね。

 

あいつ、いったいなんだ、ということになったら

『明治におった大下というヤツらしいぞ』よ云うことですよ。・・・

 この時打たれたという印象が、非常に強烈に残りましたね。

体がやわらかくてね、いいバッティングしているなあ、

とにかく素晴らしい選手だ、という印象を受けたわけです。」

 

当時の一流選手が大下弘の登場に新しい時代を感じたように、

野球ファンや少年達はもっと衝撃を感じたに違いない。

高々と飛ばす彼の打球を見て戦後の空に何を託したのだろう。

 


 

1922(大正11)年12月15日神戸に生まれた大下は母親の仕事の関係で

1936(昭和11)年台湾の高雄に移る。

高雄商業学校卒業後、1940(昭和15)年明治大学予科に進学。

翌年、東京六大学野球のリーグ戦が中止になり、昭和18年学徒出陣。

大下は戦前の野球界に表舞台に出ないまま、戦争に突入し戦争を終えた。

 

明治大学野球部を復興させようと部員達と練習をしているところを、

戦前東京セネターズの監督であり、明大OBの横沢三郎が天才を発見し、

復活するプロ野球で関東で最初に立ち上がった『セネターズ』に入団させた。

当時無名だった大下が東西対抗戦で衝撃のデビューを飾れたのも

横沢が東軍の監督をやっていたことのめぐり合わせが、心を揺さぶる。

 

スターの登場は一人だけの魅力ではない。

そのスターを見つける人との出会いが何度とも重なり合い運をひきつけてくる。

特に若い時は光り輝くスターを見つける人の才能と運も必要な感じがする。

 

◎1946(昭和21)年のシーズン

プロの野球人としてセネターズに入団し、

東西対抗での活躍からファンはホームランを望む、

そして、それに応えるがためにヒットを捨てて

フェンス越えにこだわり、スランプになっていく。

 

当初はホームランを打つプレッシャーなのか?スランプに陥り、

4月、5月とホームランを打てず、

待望の1号は開幕から20試合目、6月2日だった。

そして、公式戦1号は満塁ホームラン。

そこが大下のスター性を見せ付ける一打なのだ。

ニューヨークヤンキースに入団した松井秀樹がメジャー初本塁打が

満塁本塁打のようにスターは観衆の期待を見せてくれる。

 

戦前はフライを打ってはいけない。

転がし、走塁で最少得点を守る野球が王道だ。

しかし、そんな時代にも異端児はいる。

大下は純粋にボールを打ちそれがフェンスを越える長打力。

その魅力は戦前では少ない練習時間でしか見ることが出来なかった。
時代の巡り会わせというのは簡単だが、

戦争によって厳しい時期を乗り越えたからこそ

戦後のデビューの衝撃があったのも大下弘のスター性を感じてしまう。

 

 

◎背番号3のスター性

 

大下弘の背番号は3だ。今では長嶋茂雄の背番号としてのほうが有名だが、

昭和20年代は大下弘が背番号3をつけた王様だった。

大リーグではベーブ・ルースが最初につけた。

大下とルースの背番号3同士の共通項はホームラン打者であり

本能で動いているような自由奔放でそして無類の子供好きなところだ。
 

◎大下弘と川上哲治

 

川上哲治は昭和13年に熊本商業から巨人に投手として入団したが、

すぐに打者としての才能が開花し

翌年の昭和14年には3割3分8厘で首位打者を獲得し、

大打者の道へ進んでいったが戦争によって中断。

昭和21年途中から巨人に復帰し、

その後は巨人の四番打者として栄光への道へ歩いて行った。

 

戦前から職業野球の世界に入った川上がだいぶ年上に感じるが

大下は24歳でのプロ入りのため、川上が二歳年上の同世代だ。

しかし、大下は川上を兄のように慕っている。

川上は国民リーグ発足時、大下の軽率な契約問題には

川上が直接国民リーグの宇高代表に

「大下君を返して欲しい」と説得に行くようにお互い認め合う間だった。

 

昭和20年代(21年から30年の10年間)の二人の成績を見てみると、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

試合

打数

得点

安打

二塁打

三塁打

本塁打

塁打数

打点

打率

長打率

大下

1169

4305

649

1335

240

60

189

2262

717

0.310

0.525

川上

1181

4594

685

1494

269

54

139

2288

883

0.325

0.498

 

盗塁は大下は139個、川上は167個を残している。

数字を比べてみると二人の個性が見えてくる。

本塁打にこだわった時期が多い大下弘。

巨人の四番として安打を打ち得点力を持つ川上哲治。

 

意外だったのは三塁打の数。

盗塁は川上が多いので三塁打もと・・思ったが、

やはり打球の上がり方が大下のほうが高いのか

『弾丸ライナー』の川上より長打力があるように思える。

どちらも天才だが、より技術で打撃力をつけた川上と

技術以上の才能を感じさせる大下との違いに見える。

 

二人を語る上で有名なフレーズに

赤バットの川上、青バットの大下」がある。

戦後の野球を語る時に必ず出てくる言葉だ。

 

川上の赤バットは戦前に一時期使っていたのをバットメーカーが覚えていて、

戦後川上のために作ったが、大下の青バットは本人曰く

「青バットを使ったのは世相が暗かったからですよ。

並木路子の『リンゴの歌』がはやっていたでしょう。

あの中に『黙って見ている青い空』っていうのがありますね。

あれで、ライトブルーは青空に通じる。

 

ホームランに通じるからいいんじゃないかと思いついたんです。

それで薄い青色のニスを塗った。」と、自らの発案として、

個性を出すための青バットとして語り、

さらに「ぼくは進駐軍から買った向こうのニスを使ってたから

剥げることなかったけど、

川上さんのは日本の塗料だから剥げちゃうんですね。

それでボールに付くからというんで色つきバットは禁止になったんです。」と

何気なく川上に対するライバル心を見せている。

それを裏付けるように青田昇が「ポンちゃん(大下のニックネーム)は

よく『青バット、赤に負けるなホームラン』とサインしとったよ」と言っている。

 

 サインといえば、先日神田神保町古書店「ビブリオ」の店主小野さんが

最近の野球選手のサインがひどいと嘆いていた。

何千人もの野球選手のサインを見ていると、

年々何を書いてあるかわからない物が増えてきたそうだ。

そして、「数ある野球選手のサインの中で

一番素晴らしいのは大下弘のサインだ。」と断言されていた。

 

大下が亡くなったあと、

週刊ベースボールで連載された『大下弘日記―球道徒然草』は

巻紙で毛筆にかかれ文語調の日記を読んでもわかるように、

小野店主の言っていることもよくわかる。

 

◎終焉の地は千葉

 

プロ野球ばかりでなく、時代を作っていった二人だが、引退後はだいぶ違った。

川上は巨人の監督として、これからも不可能と思われる巨人九連覇を達成し、

監督退任後も球界に影響を与え続けていたが、

大下は東映の監督を経験したもののチームを最下位に落とし成功できなかった。

そして、千葉市稲毛に引っ越した。そこで大下は少年野球チームを作っていった。

川上も野球教室を開き開き多くの子どもたちを指導していったが、

大下は地域に根を張り子供達に野球を教えて行った。

子供達へのアプローチも二人の個性が出て興味深い。

 

 

どうでも良い話で申しわけないが、筆者は高校生の頃、

大下宅から自転車で30分くらいのところに住んでいた。

その近さを知り、「いつか会いに行こう」と思っていたが、

その1年後に亡くなってしまった。

それがずっと心残りで古い野球にこだわる要因のひとつになった。

 

大下弘の墓は千葉市若葉区の千葉市平和公園にある。

そこには大下の

「球に生き、球に殉ず身 果報者 青バット 大下」

墓碑に彼の達筆がそのまま刻まれている。

 

 

武田光司

 

大下弘 打撃成績

 

 

参考文献・引用

プロ野球発掘史(ベースボールマガジン社)

大下弘 虹の生涯(新潮社)

青バットのポンちゃん大下弘(ライフ社)

人物・日本プロ野球(文藝春秋社)

別冊一億人の昭和史・日本プロ野球史(毎日新聞社)

ベースボールマガジン昭和33年7月増刊

ベースボールマガジン昭和29年増刊

 

上記の記事は「野球雲5号」で発表されたものに加筆したものです。

 

 

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