1920(大正9年)日本最初のプロ野球チーム

「日本運動協会」(通称:芝浦協会)が設立された。

設立の中心となったのは、

早稲田大学野球部出身の河野安通志・橋戸信・押川清。

 

1905(明治38年)、早大野球部日本初の米国遠征の時に、

河野は投手・橋戸は主将で遊撃手・押川は二塁手として、

本場の野球に接し、最新の野球技術を修得してくると同時に、

「職業野球」を目の当たりにする。

 

各球団が特定の都市を本拠地とする

専用球場を持つというフランチャイズに賛同し、

また大正時代になって、選手たちがスター扱いされるなど

学生野球の弊害が目立つようになってきたことから、

学生たちの模範になるような「プロ野球チーム」を作ることにより、

その弊害を減らしていこうと考えた。

それを実行したのが、「日本運動協会」と「芝浦球場」である。

 

日本運動協会の資本金は、85,000円。

押川・橋戸が各5,000円、河野が2,000円、

その他慶應野球部OBの島田善介・桜井弥一郎、

飛田忠順などの野球関係者や実業家などが出資した。

 

大正10年に、新聞紙上で長期にわたり、選手の募集広告を出した。

全国から約200人応募してきた中から14人を採用したが、

まだ海のものとも山のものとも分からない

プロ野球チームに入る大卒者は一人もおらず、

無名の中学選手が主だった。
 

日本運動協会の選手たち
 

河野らは、学生野球の模範になるようなプロ野球チームを目指していたので、

1年間かけて選手を養成する計画を立てた。

野球技術の習得はもちろんのこと、

英語や簿記などを勉強させ、厳しく礼節を守らせた。

 

また協会は、付属事業として「日本運動倶楽部」を経営し、

入会金20円と年会費12円を納めると、

協会の運動場や倶楽部ハウスを使用し、

色々な競技を自由に行えるというスポーツクラブの概念をいち早く導入していた。

日本初のプロ野球球団も

「いやしくもスポーツによって金銭を儲け、

  生活の糧にするなどはスポーツの冒涜である」というのが

世間一般のスポーツに対する考えだったため、苦難の連続だった。

 

発足当時のメンバーは

遊 児玉

一 原山

投 山本

三 清水

右 孫

捕 片岡

中 大賀

二 大井手

左 尾崎

 

上記のメンバーは、無名選手が多く

その中では投手の山本栄一郎が1936年の巨人軍発足時の

メンバーになっている。

 

 

 

1922(大正11)年6月22日に満州遠征して初試合

遠征成績は12勝5敗の好成績で終え、

いよいよ、9月に早稲田大学と対戦したが

第1戦を1対0、第2戦を4対0で、

早稲田大学の谷口五郎投手に抑えられてしまった。

 

それでも、無名選手たちが当時最高峰の早稲田大学に善戦したことで

評価は決して落ちなかったと思われる。

 

しかし、1923(大正12)年の関東大震災によって

国から資材置き場として、芝浦球場を接収され、

活動は不可能になり解散。阪急電鉄の小林一三が

エンターテイメントとして野球に興味を示して

関西に向かい「宝塚協会」として再発足した。

それも、昭和大恐慌もあり、

1929(昭和4)年7月31日惜しくも解散した。

 

志しは高かったが、日本初のプロ野球は

それでも、その後の日本野球に種を植え付け、

1934(昭和9)年12月26日に大日本野球倶楽部(巨人軍)発足の礎になった。

 

 

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