野球雲9号では

読者の皆様からのアンケートをもとに

野球雲が選ぶ「

「日本の野球を変えた100人」を2017年6月に発売しました。

その100人を誌面で解説しきれなかったことも

当ブログでご紹介いたします。

 

第1回はランキング1位の野茂英雄さんです。

 

1 野茂英雄 退路を断ったエースの意地

(大阪府出身、1968年8月31日~  )

 



高校時代からトルネード投法で注されていた野茂は

新日鉄入社後フォークボールを取得、

1988年ソウルオリンピック日本代表に選ばれ、

銅メダルを獲得した。1989年のドラフトでは

8球団から指名を受け近鉄バッファローズに入団。

 

1年目から4つの投手タイトルとベストナイン、沢村賞、新人王、MVPにも輝いた。

その後、4年連続最多勝に輝き、奪三振は5年で1204個を奪った。

近鉄で5年間エースとして活躍したものの、

球団、鈴木啓示監督と折り合いが悪くなり、

思い切って渡米、マイナー契約でLAドジャースに入団した。

 

当時のマスコミは野茂を叩き、球界も球団、監督を擁護し、

MLBでの野茂の活躍は無理だろうという論調だった。

また、ほとんどの日本人が「失敗」するだろうと思ったかもしれない。

 

 

そして、1995年5月2日ジャイアンツ戦でメジャーデビューを飾った。

引き締まった身体でマウンドに上った姿は、新しい時代の到来を予感した。

結局その年は13勝6敗、奪三振王と新人王に輝いた。
そして、「NOMOマニア」という、ノモブームが巻き起こり、

野球界の頂点で活躍する野茂投手に日本中が湧いた。

そして日本人選手がMLBに挑戦する門戸を開いた。
 

野茂が近鉄に入団した頃は、野球が変わってきた時代で

練習、試合運びなどの他、

プロ契約の方法など旧態依然のやり方から変化してきた。

そこに、選手と指導者、球団との価値観の相違と、

1994年MLBのストライキの影響もあって

野茂のMLB挑戦は時代の流れだったかもしれない。

そして、その挑戦は夢ではない海の向こうにもっと大きな場所がある。

という認識を日本球界ならずとも、野球ファン、

民衆に認識させた大きな事件であったかもしれない。

 



野茂のいなくなった近鉄はその後球団合併という悲劇に飲まれ、

鈴木監督は現役時代の栄光から、

指導者として球界に復帰するのは厳しい状態になったのは

図らずも日本野球に近代と現代の境界線が出来たような1994年の野茂英雄のMLB挑戦となった。

 

野茂は日本の5年間を記録と記憶に残る活躍をし、

MLBでデビューする野茂を日本のファンは複雑な思いで見守ったが、

見事、1年目に「これでもか!」という活躍を見せた。

 

日本のプロ野球人気を追い抜く勢いで、

MLBの魅力と面白さも日本人に見せつけた。

1年目に成功することが、大観衆に支持される

スーパースターの条件を見事に達成したのが

野茂英雄だった。

 

2008年引退、現在野球選手を志す人の受け皿「NOMOベースボールクラブ」を創設、

後進の指導をしている。

 

2014年野球殿堂選出。

 

 

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