アメリカからベースボールが渡来したのは明治5年(1872年)ごろ
現在の東大の前身のさらに前身開成学校ではじめて行われたといわれています。
(詳細割愛)
今では老若男女ベースボールというより当たり前のように
野 球
というと思われますが、いつごろから「野球」という訳語が現れたのか?
それは中馬 庚(ちゅうま かなえ)とい方が1894年にベースボールの教則本を
執筆中にBall in the fieldというフレーズをもとに訳したものです。
もちろん、日本の野球殿堂入りしています。↓
その後時間はかかりましたが、今では「野球」というのは当たり前のように使われています。
では、その前はどのような訳語を使っていたのでしょうか?
1885年(明治18年)3月に発売された
『西洋戸外遊戯法』には
打球鬼ごっこ
と、なんとも微妙な訳名で登場しています。
それ以前にはベースを直訳して「塁球」というのもありました。
他にも「基球」「玉遊び」なども現れましたがすぐ消えたみたいです。
「打球鬼ごっこ」は確かにニュアンス的はわかるけど、
明治の硬派な時代に「可愛すぎる!」という理由で浸透はせず、
ベースボール略して地方では「ボール」と呼ばれていたそうです。
東海から関西にかけては「ベース」といっていました。
マクドナルドをマックというかマクドと言うかの違いみたいなもでしょうか?
その後、明治27年ごろの新聞には「庭球」という訳語での記事もあります。
ちなみにテニスを「基球」と呼んでいる。
また、当時のエリート学校「三高」(現京都大学の前身)では三角形の底辺(BASE)からとって
「底球」と呼んでいたらしいが、全国的な広がりにはならなかったらしい。
そこで、「野球」なんですが、その訳語を命名したときのエピソードがあります。
これは、明治の名投手
青井鉞男 (あおい よきお)の回想です。
それは明治27年の秋、
練習の鬼であった青井投手が一校宿舎の片隅で
得意の「千本振り」をやっていると中馬が息を弾ませやってきて
「青井!よい訳を見つけたぞ!! -Ball In the Field-野球でどうだ!!!」
これはまさにイメージぴったり!とうことで回りにいた選手も賛成で
これで、ベースボールの訳語「野球」が決まった。と言うことを
青井投手が生前言っていた話しだそうです。
ということで『野球』と言うタイトルで教則本が発表され、
ファーストベースも1塁、セカンドベースも2塁・・と発表されました。
一方で、野球と言う言葉の名付け親は
俳人であり、近代文学に多大な影響を与え続けている
正岡 子規がつけた!という説もありましたが、
今では否定されています。
正岡 子規 も野球殿堂入りしています。↓
とにかく、中馬 庚は
「この訳語は俺の中でもストライクだ!絶対いける!」と思ったのでしょう。
無事出版され、今では野球以外の訳語を考えられない感じがします。
中馬 庚は鹿児島出身です。
明治の野球振興に活躍し、その後1906年(明治39年)故郷の鹿児島第二中学校の教頭に就任、
1909年(明治42年)新潟県糸魚川中学校校長に就任、次いで新潟、大館、徳島の校長を歴任、
1917年(大正6年)教職を離れ、1932年(昭和7年)に逝去。
校長時代は生徒にかなり尊敬されていた人物で、数多く逸話が残っているそうです。
しかし、世渡りはあまり上手でなく、鹿児島人が言うところの
「ぼっけもん」というキャラクターだったそうです。
参考文献:日本野球創世記 君島一郎著 ベースボールマガジン社刊
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