不定期連載
野球サイコロゲーム『インパクトベースボール 八川社』の主催者
牧哲夫さんのブログです。
我が師匠宇佐美徹也さんには数多くの事を教えてもらいました。
近頃、思い返すと教えてもらった当時は気づかなかったことが
ようやくわかってきたことがたくさんあります。
そのひとつが、「資料はあまりに細かくみすぎてはいけない。」ということです。
記録を調べるとういうことは数字を扱うことなんですが、
目的の数字のみに目を向けすぎると「原稿に深みがなくなる」と言われたんですね。
記録が生まれたのがどんなシーズンなのか、
どんなチームなのか、周囲の状況はどうなったのか。
もちろん、そればっかり調べても問題はあるのですが、
そういう知識が原稿をおもしろくし、読んだ人につたわりやすくなるでしょう。
せっかくの記事も読者に伝わりにくければ意味は半減します。
ある事を調べている最中におもいだされてきたのです。
それは、「野球」という言葉についてです。
ベースボールという競技にはじめて「野球」という名前をあてたのが、
中馬庚であることは現状では確実です。「
現状」というのは新たな資料がでてくる可能性も皆無ではないからです。
では、正岡子規は?本名の「升(のぼる)」をもじって
「野球(のぼーる)」をペンネームとして使用していました。
これも現状では確実です。
正岡子規
筆者が、もしこの話題をどこかでだしたら、
半可通の野球マニアに限ってこういうでしょうね。
「やだなあ、牧さんがそんなこと言うんですかあ。
中馬庚の文章は一高野球部史であるし、
正岡子規はベースボールに訳語はないと書いているじゃないですか。」
中馬庚
それもそのとおり、クイズで言えば正解です。
ただ、ここまでは宇佐美徹也さんの言う「目的のこと」なんですね。
そもそも中馬庚と正岡子規が無関係ならば、
ここまででいいかもしれませんが、
多少、周囲も見てみましょう。
中馬庚は1870年生まれで正岡子規の3才年下です。
同じ一高に入っていて入学年も3年違います。
ならば、中馬庚と正岡子規は面識があったのでしょうか?
野球好きかつ正岡子規好きの大学教授の方に質問してみました。
答えは、「明確な交友関係をしめす資料はもっていないが、
年の差、野球との係わりの深さからみて、
まったく面識がないという方が不自然に思える。」でした。
「野球」という単語が登場した一高野球部史発刊は1894年。
正岡子規が最初に喀血したのは1888年と言われています。
さらに1889年、大喀血し結核との診断を受けているといわれています。
「血をはくまで鳴く」といわれた
ホトトギスの和名「子規」を使いはじめたのもこの頃です。
そして、獺祭書屋俳話を発表し俳句の革新運動をはじめたのが1893年。
当時は「死の病」である結核を患い、
それでも奮闘する先輩、そこにあった思いは知るすべはありません。
まったく思いなんてなかったのかもしれません。
べースボールの訳語の候補は「底球」も含め複数あったと思われます。
中馬庚と正岡子規にいくばくかの面識があったとすれば、
「ball in the field」から思いついたという話はあるけれど、
先輩の名前「野球」を競技名に同じ字を
あてるのは意識的ととしか私には思えないのです。
読者の方々に前述の「クイズの正解」とは別の想いを抱いていっただけたらなら、
私も「師匠の教え」を少しは消化できはじめたのかもしれません。
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牧哲夫さんのブログです。
我が師匠宇佐美徹也さんには数多くの事を教えてもらいました。
近頃、思い返すと教えてもらった当時は気づかなかったことが
ようやくわかってきたことがたくさんあります。
そのひとつが、「資料はあまりに細かくみすぎてはいけない。」ということです。
記録を調べるとういうことは数字を扱うことなんですが、
目的の数字のみに目を向けすぎると「原稿に深みがなくなる」と言われたんですね。
記録が生まれたのがどんなシーズンなのか、
どんなチームなのか、周囲の状況はどうなったのか。
もちろん、そればっかり調べても問題はあるのですが、
そういう知識が原稿をおもしろくし、読んだ人につたわりやすくなるでしょう。
せっかくの記事も読者に伝わりにくければ意味は半減します。
ある事を調べている最中におもいだされてきたのです。
それは、「野球」という言葉についてです。
ベースボールという競技にはじめて「野球」という名前をあてたのが、
中馬庚であることは現状では確実です。「
現状」というのは新たな資料がでてくる可能性も皆無ではないからです。
では、正岡子規は?本名の「升(のぼる)」をもじって
「野球(のぼーる)」をペンネームとして使用していました。
これも現状では確実です。
正岡子規
筆者が、もしこの話題をどこかでだしたら、
半可通の野球マニアに限ってこういうでしょうね。
「やだなあ、牧さんがそんなこと言うんですかあ。
中馬庚の文章は一高野球部史であるし、
正岡子規はベースボールに訳語はないと書いているじゃないですか。」
中馬庚
それもそのとおり、クイズで言えば正解です。
ただ、ここまでは宇佐美徹也さんの言う「目的のこと」なんですね。
そもそも中馬庚と正岡子規が無関係ならば、
ここまででいいかもしれませんが、
多少、周囲も見てみましょう。
中馬庚は1870年生まれで正岡子規の3才年下です。
同じ一高に入っていて入学年も3年違います。
ならば、中馬庚と正岡子規は面識があったのでしょうか?
野球好きかつ正岡子規好きの大学教授の方に質問してみました。
答えは、「明確な交友関係をしめす資料はもっていないが、
年の差、野球との係わりの深さからみて、
まったく面識がないという方が不自然に思える。」でした。
「野球」という単語が登場した一高野球部史発刊は1894年。
正岡子規が最初に喀血したのは1888年と言われています。
さらに1889年、大喀血し結核との診断を受けているといわれています。
「血をはくまで鳴く」といわれた
ホトトギスの和名「子規」を使いはじめたのもこの頃です。
そして、獺祭書屋俳話を発表し俳句の革新運動をはじめたのが1893年。
当時は「死の病」である結核を患い、
それでも奮闘する先輩、そこにあった思いは知るすべはありません。
まったく思いなんてなかったのかもしれません。
べースボールの訳語の候補は「底球」も含め複数あったと思われます。
中馬庚と正岡子規にいくばくかの面識があったとすれば、
「ball in the field」から思いついたという話はあるけれど、
先輩の名前「野球」を競技名に同じ字を
あてるのは意識的ととしか私には思えないのです。
読者の方々に前述の「クイズの正解」とは別の想いを抱いていっただけたらなら、
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