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~さがしつづける旅路~

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2012.5.21 父が他界しました。

自殺でした。

父を亡くした私の心の整理のために書いてます。

苦手な人は読まないでくださいm(_ _ )m


話を聞くだけで少し胸が痛くなるような家に生まれた祖父も


大きくなり小学校を卒業し


家の手伝いを始めたころ



太平洋戦争が始まった



若かりし祖父はとにかく生まれた家を出たくて


戦争に志願したと言ってた



志願兵で生まれも悪くなかったため


階級もすこし上までいったと聞いた



晩年に私の「おじいちゃん」になったころでも


戦争のときに流れ弾にあたった傷が残っていたを覚えている



テレビで戦争モノの映画などが流れると


途端に不機嫌な顔になりチャンネルを変えていたのも記憶にある




そして



戦争が終わり



生き残ることのできた祖父が


生まれた家に帰ってまもなく



祖父の親がある女性を連れてきて祖父に告げた



「世話になった家の娘だ」



「この娘と結婚しろ」




それが父の母親だった。。。。。。。



。。。。。。




父からご先祖様や家系の人の


功績などの良いことはあまり聞いたことがないが


悪いことなら時々聞いた




明治維新に貢献したご先祖様の子か孫なのかはわからないが


父の祖父は稀代の遊び人だったらしい



生まれた家にはご先祖様の築いた地位と財があったが


父の祖父がまったく働かず


呑む、打つ、買うで遊びに費やし、食いつぶしたという



家の外にも妾さんや子供が何人もいたと聞いた



父の祖父が大きくなるころには


財がほとんどなく貧乏な暮らしぶりだった



父の祖父も兄弟が多く生活は大変だったときいた



また父の祖母も主人の女遊びの影響なのか


すこしクセの強い女の人だったらしい



自分の子供たちに向かって


「○○子は好きだけど、○○子は好きじゃない」と


好きな子供と嫌いな子供をはっきりと口に出し区別したという



親に嫌いと言われる子供の気持ちを


想像するだけでとても胸が痛い



体がそれほど大きくなかった祖父も


かなり母親から冷たくされて育ったときいた



父曰く


父の祖父は稀代の遊び人だったが


ひとつだけ特技があった


それは筆が達筆であったことだった



父の祖父は働くということをしなかったが


自慢の達筆を買われて


四国のどこかの市役所の表札を筆で書いたのが


生涯でした唯一の仕事になったらしい



財を食いつぶして貧乏になりつつあり


子供たちの食事がどんどん貧しいものに変わっていても


自分の酒と肴は確保されてたというのだから


これまたとんでもない



最後に死ぬときは


子供たちに「これはオレの肴だから絶対食うんじゃないぞ」と言って


当時、高級品だった明太子を独り占めしながら大事に食べていて


その明太子に当たって死んだという・・



「欲張るもんだからバチがあたったんだな」と


父がよく笑い話につかっていた





私の祖父は


そんな遊び人で財を食いつぶした父と


子供を好き嫌いで区別するクセの強い母の間で


生まれたという話を聞いたとき





「なるほどね・・・・。」と


思ったのを覚えている





父の人柄を語るには

まずは生まれた家のことを語らなければいけない



父の生まれた家のご先祖様


つまりは


私のご先祖様でもあるのだが


今でも語り継がれる明治維新のころに

名前を上げた人がいたらしい



ちょっと歴史をかじった人なら

誰でも知ってる倒幕に関わった有名人の血縁の方で

その有名人と共に戦い

その方が死んだ後も新しい政府によって仕官されていたという



学者や古い文献にはご先祖様の名前もでてくるらしい


しかし

さっきから「らしい」と言う言葉が出てくる通り

私ははっきりとした記憶がないのだ


なぜなら


父は自分の生い立ちやルーツを話すのを嫌っていたからだ


昔、「ご先祖様に有名人がいるかも」と知って

興味津々になって父に聞いたときにも


「どんな先祖であってもお前はお前だ」

「凄いのは先祖であって俺が凄いわけでない」

「そんなに興味があるなら後生大事にとってある『家系図』出して自慢話するのが大好きなやつがいるから東京の親戚のトコに行ってみろ」

「青山に墓もあるらしいぞ」


まるでオレには関係ないと言わんばかりの言い方だった

「きっと嫌いなんだろうな・・・」と思うと

興味津々だったけれど

それ以上聞くことはできなかった


私が聞いたうっすらとした記憶である