豊臣家の末妹であるあさひは旭とも朝日とも呼ばれる 後年に徳川家康に嫁いだ時は駿河御前とも呼ばれた…もともと豊臣家は姉とも 長兄秀吉 次兄秀長 末妹あさひの四兄妹であることはわかっている 長姉であるともには子供がいた 後の秀次・秀勝・秀康の三兄弟だ 対して末妹のあさひには子供がいなかった 1543年生まれのあさひとみれば家康に嫁いだ年齢は42〜3歳であり当時にしてみればすでにおばさんに足をかけている それにあさひの年齢を考えれば結婚していておかしくもない…ただイマイチ夫の情報として確定するものがない「竹生島奉加状」(1576年)には妹あさひの記載は見つけられるが夫としての名前はない…32.3歳であれば結婚適齢期はとっくに過ぎている年齢だ だが…秀吉親族のとても近い位置には副田甚兵衛吉成の名前を見つけることができる もしこの二人が夫婦であるならば北の方もしくは内儀との表記があっても良いのかな?と思うが…副田甚兵衛には別の話があり本能寺の変の際に但馬の城を預からせていたところ本能寺の変の混乱に巻き込まれて一揆の奴輩に城を獲られてしまい激怒した秀吉にあさひとの離縁を申し渡されてそれからは故郷の尾張に隠棲してしまったということだ(武家事紀・尾張志※江戸時代初期の書物)元々が尾張の土豪(時侍)であったのかも知れない…もしかしたら独身のまま徳川家に嫁いだかも知れない可能性も否定できない なぜあさひは徳川家康に嫁がなければいけなかったのか?当時は小牧長久手の戦い(1584年)も終わり講和条件として家康は庶長子である於義伊(後の結城秀康)を秀吉に送っていますが本人は秀吉のもとに臣従を認めるわけでもありませんでした それに羽柴秀吉は激怒して今度は徳川家重臣の子供達を再度人質に出すように要請します が…家康はこれを無視します もうこれで秀吉は家康討伐の切っ掛けが出来た!とヤル気マンマンで勇み立ちます 対する家康も小牧長久手の戦いで緒戦の勝利の成功体験がありますからイキリ立ちます 秀吉の勢力は1年前と比べて格段に強固になっています 家康はそれがわかりません…石川数正は秀吉の取次としてその威勢の巨大さがわかっていますからやれば負ける苦慮の末に徳川家を出奔してしまいます そこで天正の大地震が来るわけですネ 現在言われているのは岐阜県を中心にマグネチュード7〜8の巨大地震だったと思われること(当時飛騨にあった帰雲城が山滑りにより一晩で人も城・町も全て無くなってしまった)当時秀吉の考えていた最前線基地としての尾張がそれで崩壊してしまった 京都を含めた畿内の被害も激しく復興予算は莫大な額だ また家康にしても石川数正の出奔で徳川家の機密事項が全てバレてしまった事で大混乱 両者は戦いどころではなくなってしまった 振りあげた拳をどうするか?秀吉と家康は考えた…家康は羽柴家の身内になることで自身の権威と徳川家の存続のために羽柴家の姫を正妻として貰い受けたいと願い出た このことのほうが合理的だ…定説では秀吉の方が持ちかけたとあるがそれだと秀吉の方が頭を下げたことになってしまう秀吉のプライドから考えると考えにくい 秀吉はそれで家康の臣従を得られるからヨシとした まさか家康にしてみれば本人の末妹しかも40過ぎの姫を貰うとは思ってもいなかったであろう 適当に養女でも仕方ないと思っていたのではなかろうか?とにかくあさひは1586年に駿河御前(前妻である築山も同じ呼称)に収まるが家康の正妻としての婚姻関係は短い期間で終わる 1588年にはあさひ(駿河御前)は大政所の病気見舞いとして京に上り大政所はその後快方に向かったようで一度家康のもとへと帰ったようだが いつのまにか再度上洛していてそのまま今度は家康のもとには帰ることなく聚楽第にて病没してしまう(没48歳)墓は京都東福寺と静岡の泰雲山瑞龍寺にある とにかく戦国時代の婦女子の扱いは酷いものである まるでモノのように独裁者(秀吉)の都合で人生を変えられてしまう もしあさひが前夫と無理矢理離縁させられたとか殺されたとか事実があるなら相手が誰であろうと哀れなことだとは思う あさひの心情には計り知れない傷を残したたままに逝去させてしまったことだろう…だがしかし時は戦国の世だ現代の感覚を当て嵌めても詮も無いことではある



あさひ(南明院)