秀吉と秀長の父親について考察してみた…旧来の説として秀吉と秀長は異父兄弟じゃないか?と長く言われてきた それは木下弥右衛門と竹阿弥という2つの名前が史料によって明記されたことによって起こったものだった…しかし元になった資料自体にそれほど信用性は無く実際には木下弥右衛門にしろ竹阿弥にしろ実名として証明できる資料はない!がここに戒名と没年がわかるものがある 豊臣兄弟は姉にとも(日秀尼)と妹は後に徳川家康の継室として嫁ぐあさひがいる この姉であるとも(日秀尼)が仏門に帰依する際に瑞龍寺を創建した その「瑞龍寺差出」(過去帳のようなもの)のなかに「妙雲院殿栄本虚儀(没年天文12年1月2日)西暦に直せば1543年2月5日になる」…この人物が兄妹の父親である可能性が非常に高い!という事は末妹のあさひの誕生年が1543年になるので4兄妹は同じ父親であるということになる 戦国時代の当時としてみれば子供でも労働力として貴重である 多くて困るのは飢饉の時くらいなものか? 大政所(なか?)の立場からは当然とするか若しくはこの時代に普通に横行していた夜這いや子授かりの儀式などの妖しげな風習に染まっていなければであるが真実は大政所(なか)にしかわからない 何故こんなにも父親の存在が希薄なのだろう?それは秀吉自身が父親自体の情報を無きものとして扱っているからだ 後年に秀吉は自分の家族を含めた寧々(北政所)の親族を次々と大名に取り立てたが父親の親族を名乗ったものはひとりもいないからだ 父親の親族は存在しなかったのか?それはちょっと考えにくい 確かに有名な福島正則や加藤清正は母方の親族で浅野長政や小早川秀秋などは寧々の身内の面々なのである 秀吉はどうしてそこまで父親の存在を無視したのであろうか?大政所(なか)自体は愛知郡御器所村の出身で鍛治師関兼貞の娘となっているがそれも大分に怪しい ただ出身地名の御器所村=日常品や必要機器の意味と捉えれば職人としての鍛冶屋の娘としたことは理解できる この戦国の世によほどの上級武家でなけれは武士も百姓も町民にもそれほどの身分格差も区別もない 大政所(なか)としてみれば結婚できるほどの経済力が相手にあれば否応はなかったであろう「太閤素性記」では木下弥右衛門と記してある しかも織田信秀の鉄砲足軽としてだ著者の土屋友貞の祖母が御器所村の出身で直接当人達を知っているとした話を聞き書きしたものだという ただ鉄砲はまだ伝来していないし織田信秀の所領からはかなり離れている当然に当人の思い違いもあるのであろう当時より50年以上経って書かれたものだからだ 秀吉や秀長が父親のことを隠して?いる以上日秀尼(とも)の瑞龍寺に残された戒名ひとつでいろいろと推測するしか今のところ手立てはないのである ちなみに日秀尼(とも)は豊臣秀次・秀勝・秀保三兄弟の母であり自身は90歳以上の長命をほこり豊臣家の滅亡までもしっかりとその瞳でみた過酷な運命を生きねいた人である