著者:J-P・サルトル

 

内容:港町ブーヴィル。ロカンタンを突然襲う吐き気の意味とは…。一冊の日記に綴られた孤独な男のモノローグ。60年ぶり待望の新訳。存在の真実を探る冒険譚。(「BOOK」データベースより)

 

 

 こちらの本は個人的に前々から読みたかったので、最近、やっと読破しました。まあでも、読み終わるのに結構時間がかかりました笑。思っていた以上に難解だなと笑。まあ、読む人が読めば、「わかる、わかる」と頷ける内容なのかもしれませんが、素人が読むと、ほぼ間違いなく予備知識がない事には、意味がわかりづらい作品だと思いますね。哲学者サルトルの、まあこちらは代表作と呼ばれていますが、彼の唱える「実存主義」は個人的には興味があるんですよね。とは言っても、きちんと勉強した事はありませんので、その道の人からは「何を素人が言っているんだ」とバカにされるのがオチかもしれませんがね笑。まあでも、わかりづらくて難解だとは思いましたが、それでもなお、最後まで読めば何か意味はあるかなと自分を信じて読み進めた次第です笑。この「実存主義」という、まず考え方の存在を知らない事には、この本を読んでも、相当厳しいと思うんです。自分もそれこそ、名前だけは知っていても、100%理解しているなんて口が滑っても言えませんが、ただ、どういう話であるかという予備知識だけは頭に入れて本書を読みました。これは間違った解釈かもわかりませんが、簡単に言うと、「自分とは?」であるとか、「存在とは?」という事に疑問を投げかける考え方だと思うんですね。例えばまあ、それこそよくある小説で言えば、「人間の生きる意味とは?」というのをきちんとその小説なりに唱えてくれると思いますけども、この「嘔吐」では、そもそも人間が存在している事自体においては、「意味」は無いという考え方なわけであります笑。ですから、まあ、結構絶望的と言いますか、これだけ聞くと、実にネガティブな発想に思えますよね笑。まあただ、ウディ・アレンの映画ですとか、割と世に残る映画の中では近い問いかけをしてくれているものもありますよね。「ブレードランナー」なんかも近いかもしれません。

 

 主人公のロカンタンはその「無意味」という事に突然気付き始めて、現在や過去、あるいは周囲に対して意味を見出せず、吐き気を催し始めます。小説の中では、鏡で自分の顔を見ていると、その自分の顔が突如変容し始めるという描写もありましたね。あのカフカの「変身」なんかにも近い要素があるかもしれませんね。物凄くシュールな内容です。もちろん、カフカの「変身」では実際に主人公の姿が虫へと変わりますが、この「嘔吐」では実際に顔面が変容するわけではない。あくまで、主人公から見た一種の「幻」と言いますか、心理描写です。当たり前にあった、「自分」という存在や、周囲の物体が、実に曖昧で不確実に見えてきてしまう。正にそれは、自分の目に映る世界を、昔のように「当たり前」のものとして見れなくなってしまっている事と同意義であります。まあ、自分の身に置き換えれば、それはそこらのホラーよりも大分怖い現象だと思うんですね。それこそ「ブレードランナー」でも問いかけられていますけども、例えば、今まで生きてきた中での自身の「記憶」や「過去」というものが、「絶対」のものであるという事は、これ証明の仕様がありません。「ブレードランナー」のように、誰かに植え付けられてしまった記憶だとまあもし言われてしまっても、「それは、ありえない」とは断言できないわけで。つまり、それほど曖昧なもので構築されているのが、まあ「人間」であり「記憶」であり、あるいは「人生」だという風には言えそうです。また、それは「時間」というものの概念にも通じる考え方だと思います。我々は無意識のうちに、「時が流れている」と感覚的に理解しておりますが、しかし、ただ「そこにある」という一瞬が連続しているだけで、何かが普遍的に積み上げられていたり、流れているものではないかもしれない。まあ、こういった奇妙な考え方が、なかなかその小難しく書かれておりますのでね笑。ロカンタンの不安を心から理解できる人が、一般的にどれくらいいるのか?という話になってくると思います笑。

 

 ちなみに、彼が感じる吐き気は、「音楽」を聴くと何故か収まります。それは「音楽」には、始まりと終わりが明確にあるからという理解だそうですね。つまり、始まりと終わりがある事で、そこに存在する意義を見出せるという事なのでしょうか。ただそこに、意味もなく「あるだけ」ではなく、それこそ確実に「流れている」ものですからね。ロカンタンは結果最後には小説を書く事を始めますので、その「小説」というものも、「音楽」と同様に、始まりから終わりまでを綴るものでありますから、ロカンタンの中では心の平穏を見出すという着地点になるのだと思いますね。三島由紀夫の「金閣寺」も彷彿させる考え方だと思いました。また、最近読んだ中では、「青年は荒野をめざす」という小説でも似た感覚を描いておりましたね。この辺は、まあ今でも語られる、言わば「芸術」の存在意義だと思います。まあやはり、人間、確かにただ流れに身を任せて生きているだけでは、なかなか我に返った時に「生きている意味」なんてものは見出せないと思いますが、その意義に近付く為に編み出されたものが「芸術」であるという感覚は、自分は尊いものだなと感じます。ですからまあ、一見理解ができない絵画や音楽や、映画を見る事は、別にそれ自体は無意味ではないと思うんですね。ちなみに、ロカンタンが書いた本というのがまあ、「嘔吐」という解釈なのでしょうかね。メタ的な構造も秘めた作品なのだろうと思いますが。本書は「小説」、あるいはロカンタンによる「日記」という調子で描かれた作品になりますけども、だからと言って、取っ付き易さは、無いと思います笑。少なくとも一般的には笑。これでも、もしかすると大分「優しめ」で主義の意味合いを描いてくれている本なのかもしれませんが、やっぱり難しいですよね、ある程度の教養が無ければ笑。個人的にはやっぱり、せめて「ブレードランナー」くらいのエンターテイメント要素があって初めて、それくらい難解な考えに至れるのかなと、思いましたけどもね笑。ちょっと、高尚過ぎる作品でしたかね、あくまで個人的には笑。ただ、ロカンタンが抱くその虚無感は、理解が難しいかもしれませんが、もしかすると、一瞬でも過った事がある人は、まあまあ普通にもいるかもしれませんね。

 

 

 要は「自分」という存在は、正にかけがえのない、この世で一つのオリジナルだと信じて、皆さん頑張って生きていると思うのですが、もしかしたら、全然そうではない可能性もあるかなという不安。これだけ情報が氾濫する世の中ですから、やはり知らず知らずのうちに、思考や行動が狭まったり、あるいは、コントロールされている事も、恐らくしばしばあるでしょう。しかも、一番恐ろしいのは、それに自分が気付けないという事ですね。まあまあ、気付いてしまった暁には、ロカンタンのように猛烈な吐き気に襲われ、精神的に参ってしまうでしょうから、ほどほどにした方がいいかもしれませんがね笑。この虚しさを「理解できない」うちが、逆に幸福なのかもわかりません。

 

 

おすすめ度☆☆