製作年度:1958

製作国:日本

監督:市川崑

出演:市川雷蔵、仲代達矢、中村鴈治郎、浦路洋子

 

 三島由紀夫作『金閣寺』の映画化。しかし“金閣寺”という名称を使うことが許されず、劇中では“驟閣寺”という名前に変更された。主演の市川雷蔵は、現代劇初出演となったこの作品で、ブルーリボン賞とキネマ旬報賞を受賞した。溝口吾一は父の親友が住職をつとめる驟閣寺に住み込むことになった。驟閣寺はこの世で最も美しいものと教え込まれた吾一だったが、やがて観光客が多数訪れるようになり、信仰の場ではなく単なる観光地に成り下がってしまうのを目の当たりにする。古谷大学に通うようになった吾一は戸苅という学生と知り合うが、戸苅は驟閣寺の美を批判し、住職の私生活を暴露した。(allcinema ONLINE)

 

 原作は三島由紀夫の有名な「金閣寺」という小説。結構前に自分も読みました。現在も名著として紹介される事が多い小説ですね。原作は「金閣寺」ですが、この映画版は若干異なる部分もありますので、忠実な再現と言うわけではないです。ただ、それは作り手の意図した所だそうですが。監督したのは市川崑。「犬神家~」など「金田一耕助」シリーズの監督として有名でしょうか。50年代の映画ということで、まあ年代的には確かに古いんですけど、描かれている内容はかなりモダンですし、今でも通用する内容ですね。また、例えば、構成なんかも非常にモダンな印象を受けました。例えば時間軸が結構唐突に入れ替わったりしますね。主人公のバックボーンを説明する際であるとか、学校でいじめられている回想に入る所も、何か、今でも見られる手法で描いていましたよ。この市川崑監督と言う人は、結構「遊び心」がある監督と言いますかね笑。ちゃんとその実験要素と言うか、冒険要素みたいなのがあるので、それを発見するのは面白い。また、今でも彼に影響を受けた映画監督がいるというのも、こういう点から理解ができますね。さて、主人公は吃音と言う設定であります。これが原因でいじめられますし、また自分に自信がないという描写がされています。ただ、あらすじにも書いていますが、唯一の心の拠り所が、「驟閣寺(しゅうかくじ)」という寺なんですね(「金閣寺」が映画では使用できなかった為、架空の寺にしたとの事)。

 

 父親から驟閣寺の美しさを主人公は教えられて以来、まあ、このお寺に心酔しているという感じです。それで、この寺に執着する理由の一つとして、やっぱり主人公が「父親」への執着が大きいと言う事が言えますよね。ただ、その父親は亡くなってしまうんです。完全にその「死」によって、主人公の中でどんどん父親の存在感が大きくなっていくんだろうなと思うんですね。これは、原作でもそうなんですけど、所謂「過行く物」こそが美しいというような、概念に則っていると思いますね。でも、これは我々も想像つくと思うんですよ。例えば、世界的スターが早くに亡くなってしまうと、どうしても「伝説」と言う風に語り継がれますし、仮に身近な人が亡くなっても、やはり亡くなった後は妙に良い思い出に脚色されていくケースは実際にあると思います。主人公にとって、唯一自分を理解してくれる相手が「父親だったのだ」と、どこか自分に言い聞かせている面も多分にあるのではないでしょうか。また、その「父の呪縛」という意味で言えば、これも市川崑作品は結構触れられているテーマだと感じます。それこそ「金田一耕助」シリーズにおいても、結局は父親の身勝手さから起こる悲劇だったりが多いので、市川崑さん自身がちょっとその、絶対的な父性的な物に懐疑的であったという作家性もあるのかもしれませんね。それでまあ、三島由紀夫の原作においては、やはりその「美」についての本だという印象が非常に強いです。「究極の美とは何か」という好奇心と探求心で、これは三島自身の生涯通してのテーマだったのだと思いますが、ただ、この映画版はそこのテーマを掘り下げているわけじゃなくても、もっと内面的な方向に舵を切っている印象です。

 

 

 もちろん、先ほど書きましたように、「美」について描かれているのもありますね。主人公自身が驟閣寺に魅せられているわけですから。そして、実際に「炎上」シーンとなると、やはり映像としては美しい物を感じましたからね。「内面的な方向」と言うのも、例えば、足に障がいを抱えた戸刈という男が登場しますが、彼のその世の中を「斜め」に切る姿勢が描かれますよね。世の中は全て「偽善」だと言わんばかりに、まあ主人公を半ば強引に諭していくわけです。まあ、どんどん主人公は周囲の人物も自分の環境も、そして自分さえもバカバカしくなっていくわけですね。あらすじにも書いていますが、驟閣寺が結局は観光スポットになって自分が望んでいた形を維持できなくなって行ったり、尊敬していた寺の住職も結局はビジネス先行かよと、何もかも嫌になって行くわけです。ただ、だったら自分が何をできるかっていうと、それもほとんどが裏目に出たりするものですから、二進も三進も行かなくなってくるわけですね笑。まあ、言わば挫折ですよね。と言う風にですね、完全にこの主人公の内面、心情にスポットライトが当たった映画として描かれていますよね、これは。青春映画にありがちなその、「自意識」の問題ですよ。そして、この「自意識」の問題って言うのは、これに関してはその映画の年代問わず、常に描かれ続けている、ある種人間の永遠のテーマみたいな所がどうしてもありますよね。それこそ、市川崑監督の影響を受けている、庵野秀明監督も自身の「エヴァンゲリヲン」では執拗にその「自意識」の問題に突っ込んで行っている。また、もっと言えば「スパイダーマン」とか、昨今の「MCU」の映画でさえ、「自意識」と言うテーマは積極的に着手されています。むしろ、「今風」と言っても良いかもしれませんよね。ここはもちろん好みはあると思いますが、仮に三島風に「美学への追及」のみを描いた映画ですと、たぶんわかる人とわからない人の二手に大きく分かれたと思います笑。

 

 あるいはもっと前衛的な作品になってしまったかもわかりませんよね笑。でも、この市川崑監督の「炎上」ではそういう意味では実に普遍的で、もっと言うと一つのエンターテイメントとして消化できているのかなとは思いますよ。主人公が偉い僧侶に「自分はどう見えますか?」と質問するシーンがありました。「普通の好青年に見えるがね」と僧侶は答えますが、主人公は「そんな人間じゃないんです。僕の本性を暴いてください!」と詰め寄ります。すると僧侶は笑って「何も考えないのが一番だ」と主人公に返答するんですね。誰も自分を理解してくれない苦悩が、まあこの辺は実にわかり易いです。まあ、仮に「お前はダメ人間だ」とか「お前は悪い奴だ」とか、正直に言われていたら、それはそれでまた悲しいと思うんですけどね笑。まあでも、これは正に「自己矛盾」だと思うんですよ。実際に頭の中で考えている事がどんなに自分勝手であったり、人からはたぶん支持を得られないだろうなと思えることであっても、でも、どこかでは「理解してもらいたい」というやっぱり、自分第一主義みたいな所って、切っても切れないじゃないですか笑。何だかんだ、自分が可愛いわけですから笑。これは老いも若いもあまり関係ない心境じゃないですかね。自分もそれは凄く理解できます笑。自己中心的だとわかってはいるけど、でも、自分を可愛がりたいという、厭らしい所であります笑。戸刈と言う男が女性に「お前は何者でもない」と言われるシーンがあって、すると今まで偉そうに持論を語っていた戸刈が、途端に涙しながら女性に暴言を吐くなんてシーンがあって、はっきり言って無様ですよね笑。だから、何だかんだ、「僕の本性を暴いてください!」なんて偉そうに言ったって、仮に暴かれてしまったら、本当に辛い事になるというね笑。その辺の言いようのない感覚は、絶妙にこれ描けている映画だと思いますね。三島由紀夫流に言えば、金閣寺を燃やす理由は、究極の「美」を体現する為、と言うのが一つあると思うんですよ。でも、この映画版の場合は、もう一つ、「自分を殺す事」と同意義だと思うんですね。完全に精神的な自殺だと思います。

 

 

 まあ、実際その国宝を燃やしてしまうとか、自殺を図ってしまうという行動自体は「理解ができない」っていう人が大勢でしょうが、ただ、やはり「心情」にのみ目を移してみますと、決してその異常者というわけじゃないし、どこかで苦悩自体は理解できるというのは、正直に言ってあります。まあ、仮にこの時代にSNSとかがあればまだ逃げ場があったかもわかりませんが笑、とは言え、じゃあ今その苦悩が根絶されたかというとそうではない。おそらく、今後もまたこれは永遠のテーマとして、映画や小説などで描き続けられるんだろうなとは思いますね。

 

 

おすすめ度☆☆☆